青年団活動こそわが人生 「もはや戦後ではない」と経済白書(五六年)が宣言したころの日本は、「協働」やら「補完性の原理」といった能書きが晴れ着をまとった言葉と映るほど幸せな時代でもあったろう。 その頃、そういった社会システムは、無形の「志」が担い、小さな集落ごとに連綿と受け継がれた。「協働」というシステムと、それを担保とする「補完性の原理」を声高に叫ぶ昨今社会は、「志」が細ってきた証しでもあろうか。 連綿と受け継がれるその「志」を自らの人生修練と課し、河野は人脈を広げ、政治信条の背骨としていく。 Page 32 ♪ ♪ 戦後じゃない――と、経済白書が宣言した翌年、河野は北海道立一已農業高校(後の深川農業高校)を卒業する。 卒業と同時に、そのころ入団するのが当たり前であった青年団の門をくぐる。「青年団活動なんです、私は。私の根っこはね、青年団なんです」 河野は入団と同時に水田連蔵を会長に据え「菊丘酪改4Hクラブ」(若い農業者らでつくる経営研究プロジェクト組織)を立ち上げる。「集団の中で人間形成しなさい」――。一已農高入学を勧めた同校の高垣泰彦主事の教えが河野の胸にあったからだ。 集団は鏡――。ことあるごとに河野は言う。「集団は鏡だね。集団が、他者一人ひとりが自分の鏡だからね。『まだまだ』『俺はもう少し頑張らないといけない』と思ったねぇー」 青年団は"火消しの若衆組"が、始祖とされる。域内の問題・課題を自ら掘り起こし力を合わせ協力して解決にあたるとともに生活の質を高めようというのが青年団活動だった。盆踊りといったイベントを手弁当でやったりもした。河野は農業を営みつつ、青年団活動に没入していく。 ♪ ♪ 河野がオリジナリティーを発揮するのは卒業から二年後。青年団のリーダーに就いた河野は、青年団と自ら結成した4Hクラブを合併して新組織・「菊丘青年会」を立ち上げ会長となる。荒業だった。菊丘に限らず、ときに対立することが少なくなかった青年団と4Hクラブ――。当時、その合併は珍しかった、と河野は述懐する。 仲良く、みんなで行動する、地域を良くする――。かくありたい、と河野は思ったからだ。実感してもらおうと河野は策に出る。
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