青年団活動こそわが人生
青年団活動こそわが人生
その頃、そういった社会システムは、無形の「志」が担い、小さな集落ごとに連綿と受け継がれた。「協働」というシステムと、それを担保とする「補完性の原理」を声高に叫ぶ昨今社会は、「志」が細ってきた証しでもあろうか。
連綿と受け継がれるその「志」を自らの人生修練と課し、河野は人脈を広げ、政治信条の背骨としていく。
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戦後じゃない――と、経済白書が宣言した翌年、河野は北海道立一已農業高校(後の深川農業高校)を卒業する。
卒業と同時に、そのころ入団するのが当たり前であった青年団の門をくぐる。「青年団活動なんです、私は。私の根っこはね、青年団なんです」
河野は入団と同時に水田連蔵を会長に据え「菊丘酪改4Hクラブ」(若い農業者らでつくる経営研究プロジェクト組織)を立ち上げる。「集団の中で人間形成しなさい」――。一已農高入学を勧めた同校の高垣泰彦主事の教えが河野の胸にあったからだ。
集団は鏡――。ことあるごとに河野は言う。「集団は鏡だね。集団が、他者一人ひとりが自分の鏡だからね。『まだまだ』『俺はもう少し頑張らないといけない』と思ったねぇー」
青年団は"火消しの若衆組"が、始祖とされる。域内の問題・課題を自ら掘り起こし力を合わせ協力して解決にあたるとともに生活の質を高めようというのが青年団活動だった。盆踊りといったイベントを手弁当でやったりもした。河野は農業を営みつつ、青年団活動に没入していく。
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河野がオリジナリティーを発揮するのは卒業から二年後。青年団のリーダーに就いた河野は、青年団と自ら結成した4Hクラブを合併して新組織・「菊丘青年会」を立ち上げ会長となる。荒業だった。菊丘に限らず、ときに対立することが少なくなかった青年団と4Hクラブ――。当時、その合併は珍しかった、と河野は述懐する。
仲良く、みんなで行動する、地域を良くする――。かくありたい、と河野は思ったからだ。実感してもらおうと河野は策に出る。
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合併して間もなく、河野は山頂交歓会を提案した。稲田・音江・菊丘・内園など各ルートから音江連山の無名山(標高804㍍)に登ってもらう。ルートは自由――と。
「登るルートは手段さ、目標は頂。私の歩く道が正しいとかじゃなく、それぞれの考え立場で歩けばいい。正解というものはない、どのルートも正解ということを分かってもらおうとね」。汗を流し、実感してもらう。河野の企てはメンバーの好評を得た。
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「青年団活動こそわが人生」――。河野は臆面もなくそう言い切る。
北空知青年団協議会会長、北海道青年団協議会会長、日本青年団協議会副会長、日本青年館理事――。そのときどきに出会う政財界の重鎮に人脈を広げていった。河野は、今も北海道青年団OB会会長の要職にある。
河野が他市町村に名を知られるきっかけとなった逸話がある。
河野は、突飛な行動に出る――。
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「青年たちが集える場所がほしい」。河野は思った。五九年(昭和三十四年)――。当時、菊丘に公民館はなく、域内の四つの町内会ごとにささやかな会館があるだけだった。町内会のわくをこえた大きな会合をやるときは菊丘小中学校に民は集った。
「みんなが一カ所に集まって、気兼ねなく足を伸ばしてくつろげる場所がほしかった。青年たちが集える場所がね」。建てるには金が要る。得るためにどうする……。河野は思い切った行動に出る。
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青年研修所を建設しよう――。
河野は団員に提案する。資金をどう工面する。河野は道と交渉し、「菊丘青年会」として地元にある道有林(およそ二五〇㌶)の下草刈りを請け負う。七月だった。暑いさなか、男子団員(二十人ほど)は大きな鎌を振るう。女子団員(十五人ほど)は男子団員宅の水田や畑の除草をして後方支援にまわる。三日ほどかけてやった。三万円の収益があった。地元の教員住宅が払い下げられることを知った河野は近くの敷地に青年研修所を建設する計画を練る。
このとき地域が動いた。青年団の一生懸命な取り組みに「菊丘町内会連合会」が地元の大工と相談し、青年研修所を建ててくれたのだ。河野は述懐する。「ありがたかった。感謝している」――と。
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六一年、河野は「音江村連合青年団」の団長に就く。
佐々木実(元深川市議会議長)・水谷勤(元市議)・竹田稔(元市議)=いずれも故人=――。河野は、往時を懐かしむように北空知青年団幹部だった三人の名を挙げた。「公私ともご指導いただいたことは今も忘れない」
こんなことがあった。音江村連合青年団会長に就いて間もない河野は岡山県玉島市(現・倉敷市)の玉島JAに研修に入った。七月だった。い草を玉島研修時のワンカット、後列中央が河野刈った水田に耕起しないで一株ずつ苗を植える。岡田組合長宅に寝泊りし河野はそうした田植えをやった。岡田宅は毎朝梅干がでる。河野は梅干が
大の苦手だった。用意したチリ紙に梅干を包んで食べたふりをする。「河野さん、梅の種まで食べなくてもよいのですよ」。組合長の奥さんは何もかも知っていた。河野は頭をかくばかりだった。今では河野は大の梅干好き。三百六十五日欠かさない。
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河野が玉島研修を記憶するのは、こうしたエピソードのほかに、玉島近くに、良寛が若いころ修行したことで知られる曹洞宗・円通寺があったからだ。良寛が生まれた新潟県出雲崎は、河野家始祖の地でもあり、河野は幼少から良寛への親しみがあった。この研修のときも河野は円通寺を訪れている。
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このころ、河野は後の伴侶となる同じ菊丘に住む三つ下の女性と交際を始める。「正直申し上げると……」。意地悪くどんな交際だったかを問うと、顔を赤らめそんな堅苦しい枕詞から始める河野である。「おやじ(健一郎)のバイクを拝借して、お祭りとか盆おどりに○○を後ろに乗せて……」。"やんちゃな横顔"をちらっ、とのぞかせた。
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忘れられない研修がある。六二年二月、河野は、一已村青年団長・岡部誠二(元深川市議会議員)とともに北海道青年団を代表して全国青年問題研究集会に派遣された。このとき河野は、日本青年館(初代)に初めて足を踏み入れる。全国各地から集った青年リーダーたちが意見を発表しあう。
「痛烈だったねぇー。自分がいかに愚かであるか、無知であるかを思い知らされた」。もっと、もっと勉強しなきゃならん――。河野は、つよく自らに言い聞かせた。
河野二十四歳だった。
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「『なるほど、なるほど』と聞くがままだった……」。自らの愚かさ無知を痛いほど味わった日本青年館(東京)での研修から戻った河野は翌月、生涯の伴侶を迎える。一九六二年(昭和三十七年)三月二十七日だった。
女性とは共に青年団活動をしていた。月見例会を終えたある夜、歩きながら河野はプロポーズした。
妻に迎えた申子(のぶこ)=旧姓・奥山=は、同じ菊丘に住む三つ下。申子の父・巌は民生委員を担い、母・英子は農協の婦人部会長を務めた。河野家と
同様に奥山家も公務を担うことが多く、共に曹洞宗でもあり両家は旧知の間柄だった。
「歌がうまいなぁー」。それが河野の第一印象だった。学芸会で、三年生の申子が一人で童謡「蛙の笛」を歌う。「おかっぱ頭でかわいかった」――と。
<写真> 将来を誓った河野と申子
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「お前の嫁さんの顔を見るまで、は、じいちゃんは死ねない」。河野は、じいちゃん子だった。膝(ひざ)に抱いた河野のいがぐり頭をなぜながらそう言
うのが祖父・仁三次の口ぐせだった。
申子が河野に嫁いだころ、祖父・仁三次は老いて床に伏せていた。それでも好きな日本酒を毎日一合飲む。河野の母・千代を手本に、申子は床に伏せる祖父・仁三次を介助し、日本酒を飲ませてあげた。亡くなる二日前まで続いた。結婚からちょうど三カ月後、仁三次は亡くなる。祖父の面倒を見る申子の姿を河野は「やさしい」と感じていた。
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後に申子は、日本舞踊をたしなみ、着付け教室の講師も務める。ライオンズクラブで大好きな歌も披露した、という。仁三次を最後まで面倒を見た申子だが、生来、体は丈夫じゃなかった。家を空けることが多く、さらには深夜の来客……。河野には妻・申子への詫(わ)びと感謝のいりまじった深い思いがある。
今、申子を河野が精いっぱい介助し、日々を送る。
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話しは結婚の一年ほど前にさかのぼる。六一年(昭和三十六年)は、河野の人生にとって意義深い年であった。当時、音江村青年団連絡協議会の会長だった河野は、宿泊研修施設「北海道立青年の家」(現・ネイパル深川)の誘致に奔走する。提唱する文部省(当時)は、道立は一カ所のみとした。 「音江連山が背景にあるいい場所です。ご案内しますのでぜひ一度見に来てください」。なんとしても音江村に誘致したい、と考えた河野は札幌に足を運び、文部省から北海道教育庁(当時)に出向していた社会教育課長・稲垣守にそう迫った。初めての陳情だった。
音江村長・藤谷軍一、音江村議会議長・井上正男、音江村教育委員会委員長・舘田国芳とともに河野も名を連ね北海道立青年の家の設置陳情書を道に提出する。
「北海道のあちこちで、北空知でも町村の誘致合戦が激しかった。深川町(当時)が有力だったが、藤谷村長さんが先頭に立って頑張ったおかげでね……」
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河野は再度動く。
「力を貸してください」――。
河野はひそかに、当時北空知教育委員長会の会長だった安岡正の自宅を訪ねる。自らの熱い思いをぶつけ大先達を口説く。河野二十三歳。スパッと、相手の懐に飛び込む。後の河野を彷彿(ほうふつ)させる萌芽がすでに見える。
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一九六一年夏――。
「あー、ここはいいわー!」。河野に誘われ、その地に立った稲垣は感嘆するかのように言葉を落とした。内定が決まった感嘆の声でもあったろうか。
最後は、"音江の緑豊かな自然が口説き落とした"。
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六四年(昭和三十九年)、音江村長・藤谷軍一、河野らの熱い陳情が実を結び地元音江村(当時)に待望の北海道立青年の家がオープンした。当時の日本は高度経済成長に酔う元気な"青年"のようでもあったろうか。
北海道開道百年を翌年に控えた一九六七年(昭和四十二年)、北海道青年団体協議会=道青協=は生誕二十周年を迎えた。
大きな節目の両年、道青協会長を務めたのが河野順吉だった。六七・六八の両年度、第十代会長を河野は担う。
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明と暗――。
河野の脳裏に焼きつく光景がある。
六七年八月、長沼町で開かれる若人のスポーツの祭典「第十八回全道青年大会」――。大会に合わせ道青協の"成人式"を祝う「青年の火」リレーが、北海道立青年の家を出発した。五輪の聖火リレーのように、国道12 号を各地区の青年団のメンバーが「青年の火」をリレーする。
「白の短パンに白いランニングを着て鉢巻姿で青年団のメンバーが『青年の火』をリレーしたのは忘れがたいね」。しかもスタート場所は深川市音江町の道立青年の家。河野は今もそれを誇りに思う。
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「青年の火」リレーが明るさに満ちた青春の長調を奏でた一方で、かげる短調の調べがゴール地であった「第十八回全道青年大会」の一事だった。短調の調べが青年団員の胸を締めつける。
柔道競技で、留萌から参加した男性が首の骨を折った。体の一部の機能がまひした。男性は重い障害を負う。
怪我と弁当は自分持ち――。そんな時代でもあった。されど「ご本人と家族のことを思うと申し訳なく心中穏やかではなかった」。主催する道青協の会長であり、大会長でもあった河野の心は揺れる。東奔西走し全道各地の青年団のメンバーに募金を呼びかけた。
五十万円を障害を負った男性の家族に届けた。されど、河野の心は落ち着かない。そうこうするうち、留萌市挙げて責任を問う運動にまで発展する。あるとき、留萌市議が河野のもとにやってきて責任を厳しく迫った。
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留萌選出の道議から道庁とよく相談するようアドバイスされた河野は、当時北海道でなじみのなかったスポーツ傷害保険を知る。
本州先進地の事例を参考に河野は青年大会における次年度以降のスポーツ傷害保険制度導入を決める。それは北海道におけるスポーツ傷害保険制度導入の先がけともなった。
明暗が交差する二年間の道青協会長時代を振り返り、河野は一人の男の名を挙げた。「几帳面で、それでいて行動力が旺盛だった。アイデアマンでもあったね」。道青協の会長・河野を支えたのが十二年前に静内であった全道農業高校弁論大会で競いあった高松孝行だった。高松は副会長として、河野を支えた。
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北海道立青年の家(現・ネイパル深川)に「青年の像」があるのをご存知だろうか。前庭に今もある。「拓魂碑」(深川市あけぼの町)を手がけた竹中敏洋が制作した。
この青年の像を道知事・町村金五(当時)は「飛翔」と名づけた。
六七年九月一日――。除幕式に岡村正吉道教育長ら三百人が参列した。「いやー、うれしかったね。『青年の像』の深川設置を決めてくれたみなさんに感謝だった」
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この青年の像を道知事・町村金五(当時)は「飛翔」と名づけた。
六七年九月一日――。除幕式に岡村正吉道教育長ら三百人が参列した。「いやー、うれしかったね。『青年の像』の深川設置を決めてくれたみなさんに感謝だった」
台座には、今も道知事・町村金五と河野順吉の名が刻まれている。
<写真> 青年の像「飛翔」の除幕式で北海道青年団協議会会長としてあいさつする河野
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「青年団活動こそわが人生」。そう言い切る河野は、北海道青年団協議会会長から日本青年団協議会の常任理事を経て副会長の要職を担う。その後、日本青年館の理事を務めた。今も北海道青年団OB会の会長の要職にある。
河野は、青年団活動を通して多くの要人とふれあい、自らの血肉とした。
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道知事を担った町村金五は、河野にとって忘れがたい男の一人だ。「青年に目を向け耳を傾けて接してくださった」。その穏やかな人柄を河野は今も胸にしまう。
後任の知事となった堂垣内尚弘も未来を担う青年への支援に熱い心をお持ちだった、と述懐する。
第一回青年ジェットの団長を務めたのが北海道青少年育成推進協議会会長を担う(当時)杉野目晴貞だった。有機化学者と知られ北海道大学の第七代学長を務めた杉野目とともに河野も第一回青年ジェットの指導者として米国へ。「杉野目先生とは青年ジェットを機会に昵懇(じっこん)のお付き合いをさせていただいた」
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岡泰一(76)=新篠津村在住=は、その一人だ。村議十期を務め、今も日本青年館の理事を担う。北海道青年館の理事長だった河野を岡は専務として助けた。
気心が知れ、「支え合ってきた」という相手が田中満郎(85)=北見市在住=である。道立青年の家の指導員として六七年に二人は出会う。剣道で名をはせた田中は克己心の強い男で、「情の深い人だった」(河野)。三年ほどして田中は深川を去るが交わりは今も。感動した出来事やふと目にとまった文章をコピーして添えるといった手紙のやりとりを重ねる。
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「兄貴分みたいだった」。そう称するのが北海道青少年団体連絡協議会の会長を務めた吉原弘行(88)=上川管内東神楽町在住=だ。河野と吉原は、六八年(昭和四十三年)ごろから北海道青少年会館の建設に向け行動を共にする。二人は策略を練った。
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「後光がさしているような感じだった」。口数は多くない。されど痩身から優しさがにじむようだった。河野はそう述懐する。
後藤文夫――。農林大臣、内務大臣を務め日本青年館の理事長・名誉会長を務めた。
「長沼はどうなっている。町村は元気か?」。七〇年、日本青年館の監事だった河野は、名誉会長にあった後藤から声を掛けられた。農林大臣のときに訪れた長沼で水はけの悪い農地の惨状を農民から聴き、後藤は現地を丁寧に視察して帰京した後、すぐに改良の予算をつけた。後藤は四十年ほど前のことを気にかけていた。
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「北海道にいらしてください」。河野は後藤を誘う。河野三十二歳、後藤八十六歳だった。美田を誇る長沼を見てもらいたい――。同時に河野にはもう一つ策があった。北海道青少年会館建設に向け、町村知事ら本道要人と後藤を交え一席設ける魂胆だった。
河野の誘いを受け長沼に来た後藤を両沿道に埋め尽くした町民らが日の丸の小旗を振って出迎えた。農家の女性がおにぎりを差し出す。こんなおいしいおにぎりがつくれるようになりました――と。
当時市議でもあった河野はその光景を見て自らに誓った。「地域のためになることをやるぞ!」と。
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「日青協の常任理事と副会長をやるなかで省庁に行く機会が増えた」。全国の青年団の仲間には、すでに国会議員もいた。そうした仲間のつてを得ながら河野は省庁に食い込み三十代前半から人脈を広げてゆく。「青年団が私を大きく育ててくれた。人に心がなかったらつながっていけないものだ。『心』と木の『根』は見えない。だけど一番大切なもの。それを青年団活動で教えられた。感謝だね」
青年団活動で培った心根と人脈が、後の市議・市長時代に生きることになる。
<写真> 後藤来道の際に設けた座談会 後藤(正面左)、町村(正面右)、右列奥から杉野目、堂垣内、司会を務めた河野、1人おいて吉原= 70年9 月14日、札幌グランドホテルで
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