深川に生きて 河野順吉伝 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1/01/2020 深川に生きて 河野順吉伝 本編は二〇一七年(平成二十九年)七月二十六日から一八年(平成三十年)十二月五日にかけて北空地新聞に五十回にわたり連載された記事を、再編したものです。 本文中の敬称を省略しました。氏名の後の年齢(( )内)は、特にことわりのない場合、連載時のものです。 Page 23 ◇ リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
第3楽章:"深川交響楽団の指揮者"に賭す 1/01/2020 第3楽章 "深川交響楽団の指揮者"に賭す 地方自治体の首長は「政治家」なのか、はたまた「事務方トップ」なのか?――。 多様な意見があるだろう。論は尽きない。ある意味、正答はない、と言ってもいい。それを担う者が自らのスタンスを定め、ぶれなければ……。 深川市という地方公共団体を"深川交響楽団"と、なぞらえて言えば、「市長」は、指揮者ともいえる。指揮者は楽団員の構成を担いながら唯一音を発しない。団員一人ひとりは市職員一人ひとりであり、木管や金管、バイオリンといった各セクションは、市組織機構の各部署に例えることもできる。 して、「聴衆」は、「市民」であろう。 テンポ、アクセントの強弱、各声部の扱い方……。同じ交響曲を演奏しても指揮者によってずい分違う。テンポを微妙に動かしうねるように早くしたり、おそくしたりして情念の塊のような演奏をした二十世紀を代表する名指揮者・ウィルヘルム・フルトヴェングラー、逆にインテンポで押し通し淡白のようで、されどその曲が内包する美しさを見事に表出したカール・シューリヒト……。 無能なオケは存在しない、指揮者が無能なのだ――。古くから西洋音楽界には、そんなことわざもある。名指揮者は楽団員一人ひとりの力を引き出す――と。指示を与え、各セクションがそれに呼応し、オーケストラ全体(音楽全体)が美しい音色を奏でるか否かは指揮者にかかる。ただ、市井(しせい)の機微に応じた指示かどうか、総じて美しい音色か否かを判断するは聴衆・市民である。 ♪ ♪ 「政治家であるべきだ」。自治体首長は「政治家」か、あるいは「事務方トップ」か――。そう河野に問うと、間髪を入れず、一顧だにせずそう答えた。 Page 70 「だからみんなの声をね拾って、ときに道や国、他団体を動かすことが大事だ。私のスタンスだ。できないものを……」。「できないものを」「できるようにする」「実現する」――。河野はそれに心血を注ぐことになる。 ♪ ♪ <写真> 初登庁の折、庁舎前で支持者・市職員の歓迎の中、 市職員より花束を受け取る河野 九四年十月十七日、深川市役所前――。深川市長・河野の初登庁だった。二日夜に当選が決まり、翌三日、市議時代の後援会... 続きを読む
写真集"思い出の一コマ" 1/01/2020 写真集 "思い出の一コマ" <上> 順吉6歳 兄孝仁10 歳(1944年) <下> 家族旅行 孫が幼い頃は母・千代と河野夫妻、子供、孫と共に Page 144 <上> 市長当選のよろこび(1994年) <下> ダルマに目を入れる河野夫妻(1994年) Page 145 <上> 地元音江神社例大祭祭典委員長をつとめる 妻・申子と共に(1979年9 月10 日) 猿田彦は佐伯英夫 <下> イオンド大学名誉博士号を受章し市役所幹部職員に祝福を受ける( 1999年) Page 146 <上> 市長選の投票日に 母・千代と河野夫妻 当選を信じて <下右> 市長の顔 <下左> 市役所前庭に深川市開基110 年を記念して建てられた『大地の恵み』の像 彫刻は福井尚敏(深川出身・茨城県坂東市在住)、題字は河野による(1996 年) Page 147 <上> 新幹線にかける夢を持ち寄った北海道各界トップ 左から、河野、武井正直道経営者協会会長、 大盛義弘道経済同友会代表幹事、 小里貞利衆院議員、高橋はるみ知事、 横山末雄札幌商工会議所副会頭、 坂本JR北海道会長、山本邦彦北海道副知事(2004 年6月5 日) (小里貞利先生の60年の足跡 アルバムの中から) <下> 全国青年団出身市長会 群馬県前橋市萩原市長の招きの宴席で代表して盃を戴く河野 Page 148 <上右> 参議院議員長谷川岳先生 <上左> 長谷川岳先生(よさこいソーラン祭の立役者)の創設から、深川市で7年間続いたジュニアよさこい祭にて 日下阿久里リーダーと娘の瑞希ちゃん(4歳・河野の前) <下>友情のあかし 愛知県安城市の杉浦市長よりプレゼントされた七夕まつりの竹飾りを、市文化センターロビーに飾る Page 149 <上> まあぶ祭で料理家・ クッキングキャスターの星澤幸子先生を招いて皆さんにご紹介 <下> 佐賀県 深川製磁(有田焼)訪問時、職員の方から説明を受ける Page 150 <上> 西尾沼富鳥取市長をお迎えして、しゃんしゃん傘踊り(深川市のふ... 続きを読む
表紙・はじめに 1/01/2020 『深川に生きて』表紙 ありがとう 河野順吉伝 「河野順吉伝」出版記念協賛会 深川に生きて 河野順吉伝ありがとう 出会った皆様に感謝 我が人生を支えてくださった皆様に感謝 多くの皆さまから受けたご恩に感謝 家族に感謝 ありがとう 順 吉 ◇ 続きを読む
第2楽章:市議・人生修練の場を郷土深川に 1/01/2020 第2楽章 市議・人生修練の場を郷土深川に 名市長とうたわれた河野順吉(79)が、"深川丸" のカジとりを担う以前、 市議を務めていたことは一般に知られてはいるが、 どんな議員だったか、 どんな活動をしていたのかを知る人は現在においてそう多くはない 。 第二楽章は、河野の市議時代を振り返る。個人的な趣味・くせ―― といったやわらかな装飾音を交えながら、「順(じゅん)ちゃん」 と慕われた市議・河野の足跡を追う。 ♪ ♪ 河野が深川市議会議員になったのは、六七年(昭和四十二年) 六月。その前年、冬季五輪の開催地に札幌が決まる。 日本は高度経済成長の真っ只中にあり、 北海道にも夢があふれていた。 「♪町が~できる 美しい町が♪」――。札幌冬季五輪のテーマソング「 虹と雪のバラード」が象徴するように、 うちからわきあがるような希望が満ちる良き時代でもあった。 そうした空気に包まれ市議を担えたことに河野は自らの幸運を感じ る、という。河野は、九四年九月まで市議( 市長選出馬のため七期目中途辞職)を担う。 <写真> 菊丘から広里へ地盤を移した4期目の遊説、 たすき姿の河野の左隣りが妻・申子、 右隣でマイクを握るのが後援会長・石川藤作、 1人おいて遊説隊長・三上閑 page 44 ♪ ♪ 「議員だった父親の背を見てはいた。 人を大切にすることだとかね。 だけど実務は当時市議一年生だった私は無知だった。 先輩市議だった佐々木実さん、 竹田稔さんにリードしていただいた。 ほんとに良き先輩に恵まれて私は幸せ者だった。 一期目も二期目もお茶くみの気持でやったもんだ」 先輩議員だけじゃない。市議をやり青年団活動も続けていた。 八面六臂――。そうした河野を周囲も支えた。 ♪ ♪ 市議になっても河野は家畜を飼っていた。妻の申子(のぶこ) が丈夫じゃないことを地域は知っている。 事情を知る隣りに住む井口春敏(現・民生委員、菊丘在住)は、 だまって何も言わず河野の家畜の草を刈りエサを用意してくれた。 「今でも家内は、『当時の夢を見る』と感謝している。地域( 菊丘)のみなさんが私たち家族を見守ってくれた。だからこそ『 菊丘のために』と思ったね」 ... 続きを読む
「青年団こそわが人生」――発刊を祝して:翼の会世話人 堀 利幸 1/01/2020 「青年団こそわが人生」――発刊を祝して 翼の会世話人 堀 利幸 「河野順吉伝」が上梓されると聞いて、とても嬉しく熱い思いが伝わってきました。そして河野さんとのいくつもの思い出が瞬時に脳裡を駆け巡ったのです。 私が河野さんと出会ったのは、半世紀も前の昭和四十三年に行われた北海道百年記念「北海道中堅青年海外派遣事業」(通称・青年ジェット)のメンバーに決まり、 その事前研修に参加した時でした。青年ジェットは北海道二世紀を担う青年に開拓者精神を身につける趣旨で、本道開拓に尽くされたクラーク博士のお墓( マサチュウセッツ州)にお参りして、アメリカの東から西へひと月にわたって民泊しながら研修する壮大なプロ ジェクトです。団長団四名、指導者二十一名、 全道から試験を受けて合格した青年百五名の百三十名がジェット機 をチャーターして七月三十日に出発し、 九月二日の北海道百年記念祝典に出席して解散したのです。河野さんと私は指導者メンバーとして参加しました。 帰国後は支庁管内ごとに「あすをつくる青年開発会議」(のちに「 青年婦人国際交流センター」として活動) が組織され河野さんは空知管内の会長として大活躍されたのです。 私も当初のころ役員の一人としてご一緒させていただきました。 また青年ジェット参加者は、学校の卒業同期会とも言える「 翼の会」を結成し、毎年欠かさず集まり活動してきました。昨年は「青年ジェット・ 翼の会五十周年」で高橋はるみ北海道知事さんと北海道青少年育成協会の竹谷千里会長さんから記念誌へのご寄 稿、集いへのご出席を賜わりご祝辞と激励をいただきました。 二つの事業は会員の理解と協力で成功裡に終えたのですが、河野さんは私の気付かないこと、 及ばないことを補ってくださったのです。表に出ないで友情として支援する河野さんの人柄に私は心から敬服し感謝しています。 河野さんが深川市長時代のことです。 空知管内には二十七市町村長(現在は二十四市町)で組織する空知地方総合開発期成会があり、 市町村や空知の発展に向けて国や北海道に提言したり要望したりしています。河野さんは副会長として会長(岩見沢市長) を支え、空知管内の発展に尽力されました。 私は期成会事務局長のころにいろいろ相談に乗っていただいたので す。 河野さんのこ... 続きを読む
本サイトについて 1/01/2020 本サイトについて 本サイト制作者の寺内昇&郁子(北竜町在住)は、北竜町集落支援員としてインターネットサイト『 北竜町ポータル 』を運営管理し、北竜町の魅力の取材・発信を行っています。 北竜町の歴史を掘り起こす中で、町内の 田中盛亮(たなか もりすけ)さん 、 黄倉良二(おうくら りょうじ)さん から空知青年団の活動の素晴らしさ、河野さんの素晴らしさを教えていただきました。 そして、北空知新聞の連載記事「河野順吉伝」を読み、感銘を受けました。『深川に生きて』が出版された後、「本の内容をインターネットで公開し、より多くの人々に北海道の青年団が築いてきた北海道北空知の歴史と魅力を知っていただいただきたい!」と思うようになったのです。 河野さんに書籍のインターネットでの公開を提案させていただいたところ、ご快諾いただきました。そして、北空知新聞、関係者の許諾とパワプラ出版の許諾及び資料提供をいただき、今般、インターネットでの公開をすることができました。関係者皆様のご協力に心より感謝いたします。 なお、本サイトの制作は、寺内昇 & 郁子が自発的に作成させていただきました。インターネットで「人の情熱が世の中を作る」という情報を発信できるご縁をいただけたことに、心より感謝いたします。ありがとうございました。 2020年1月1日 寺内昇 & 郁子 ▶ 関連記事 <北竜町ポータル> 北空知青年団OB会総会並びに河野順吉さん『深川に生きて』発刊記念祝賀会 (2019年) ◇ 続きを読む
青の時代 1/01/2020 青の時代 順吉が小学四年か五年生のときだったろう。母・ 千代がテントの生地を切り、 針で丁寧に縫って中に綿を入れキャッチャーミットをつくってくれ た。「走るのは駄目だったけど野球が好きだったからね」。 順吉はキャッチャー役となり、ピッチャー役兄・ 孝仁のほおる球を受け遊んだことを懐かしく思い起こす。母・ 千代ら周囲の愛情をいっぱいに受け、順吉は中学を卒業する。 ♪ ♪ 「自分の人生の土台というのかなぁー、基になったね」。順吉は、 北海道立一已農業高校(後の深川農業高校)の定時制に入る。 逸話がある――。菊丘から自転車で通学したのだ。 山奥の菊丘から当時あった函館本線神居古潭駅(旭川市神居古潭) までを。距離にして十七㌔ほど。それから順吉は汽車に乗る。 深川駅で降り一已農高まで歩く。四年間続けた。 Page 30 牛や馬のエサをやらなければならない。朝六時から農作業をやった。午前十一時に宅に戻る。飯を食う。午後一時、自転車にまたがる。うまず続けた。 ♪ ♪ 「彼が菊丘から難儀して通っている姿を見てね、『自分も頑張らなくちゃならない』って思ったね」。そんな順吉の姿を生涯の友となる同級生の木村亀太郎(79)=深川市音江町内園、元東邦金属取締役深川工場長=は見ていた。 冬季(十一月~四月)、順吉は学校寮に入る。亀太郎と同室だった。互いに「亀さん」「順ちゃん」と呼び合う仲となる。河野は往時を述懐する。「彼は向学心に燃える、それでいて人なつっこい性格でね。信頼していた」。木村は、鮮烈な印象を河野から受ける。「物事にしっかり取り組むなんともいえない人格的なものを感じた」 実は順吉と亀太郎は共に、当時一已農高定時制の主事をしていた高垣泰彦(後に深川市選管委員長)から乞われて入学していた。「定時制に通う生徒の中には『なんで俺がこんな……』って思う人もいた。だけど、『ぜひほしい』と言ってくれた高垣さんのおかげで私は大手を振って通ったし、期待に応えたい、とも思ったねぇー。木村さんも同じ気持だったんじゃないかなぁー」 <写真> 前列右端から順吉と担任の新田先生、亀太郎(後列右から二人目)=木村さん提供 ♪ ♪ 「おい、... 続きを読む
河野順吉 略歴 1/01/2020 河野順吉 略歴 ・一九三八年(昭和 十三年) 三月三十日 深川市(旧音江村字菊丘)において、父健一郎、 母千代の三男として出生 ・一九五〇年(昭和二十五年) 三月 音江村立菊丘小学校卒業 ・一九五三年(昭和二十八年) 三月 音江村立菊丘中学校卒業 ・一九五七年(昭和三十二年) 三月 北海道立一已農業高校(=六三年より北海道立深川農業高等学校) 卒業 ・一九六二年(昭和三十七年) 三月二十七日 妻申子と結婚 ・一九六七年(昭和四十二年) 六月 深川市議会議員 ・一九九四年(平成 六年) 九月 ~ 七期四月間 ・一九九四年(平成 六年) 十月 深川市長 ・二〇〇六年(平成 十八年) 十二月 ~ 三期二月間 議会関係 ・一九七五年(昭和 五十年) 七月三日 ~七七年(五十二年)六月二十九日 議会運営委員会委員長 ・一九七九年(昭和五十四年) 六月二十九日~八一年(五十六年)六月二十八日 建設常任委員会委員長 ・一九八七年(昭和六十二年) 六月三十日 ~八九年(平成元年)六月二十九日 経済常任委員会委員長 ・一九八九年(平成 元年) 六月二十日 ~九一年(三年) 六月十七日 厚生常任委員会委員長 ・一九七二年(昭和四七年) 三月二十二日~七五年(五十年) 六月十七日 北空知広域圏調査特別委員会委員長 ・一九七五年(昭和五十年) 三月二十六日~七五年(五十年) 五月二日 議会の議員定数調査特別委員会委員長 ・一九七七年(昭和五十二年) 九月 決算審査特別委員会委員長 ・一九七九年(昭和五十四年) 三月 予算審査特別委員会委員長 Page 138 青年団体表彰並びに感謝状 ・一九七二年(昭和四十七年) 五月七日 日本青年団協議会長より 功績をたたえて ・一九七八年(昭和五十三年) 四月九日 北海道青年団協議会長より 三〇周年を記念して ・一九八八年(昭和六十三年) 六月十二日 北海道青年団協議会長より 四〇周年を記念して 市議会関係表彰 ・一九九〇年(平成二年) 四月二十六日 北海道市議会議長会長より 功績をたたえて ・一九九三年(平成五年) 五月二十七日 全国市議会議長会長より 永年表彰 ・一九九四年(平成六年) 四月二十... 続きを読む
お礼のことば 1/01/2020 お礼のことば 人の恩に感謝し、 人との出会いの絆を大切にしなさいと両親から教えられ早くも八十 歳を迎えようとしているとき、 北空知新聞社から取材の依頼を受け、 私自身はそんな器ではないことを一番知りつつも信頼している方々 に相談させていただきました。 皆様からは、取材を受けるべきとの励ましのお言葉を賜り、 一週間ばかり自問自答を繰り返し保留にしておりましたが、 私ごときに恥ずかしながらご指名をいただいたことに感謝し、 お引き受けをした次第です。 掲載にあたり北空知新聞間山記者には、 取材活動に大変なご苦労をいただきましたが、この間多くの先輩、 同志の方々にも新聞社よりのお聴き取りをいただき対応なされた方 々に衷心よりお礼を申し上げます。 幸いに記事の連載は、 平成三十年十二月をもって無事終了しましたが、 読者の方から新聞を発行された時々、 さらに完結の折には一冊の本にまとめてはとの、 心温まるご進言をいただきました。私は、 作家志村有弘様にご相談させていただきました。 早速、 志村様から私の出来る限りご協力をさせていただくとの有り難いお 言葉もあり、 先輩で私の深川市議会議員時代の石田元議長様に出版協賛会の会長 をお引き受けいただくこととなりました。 お陰様で関係される皆様のご尽力でこのたび発刊に至りましたこと は、誠に感謝に堪えなく心から厚くお礼を申し上げるところであります。 特に発刊に際しまして、 日頃よりご指導を賜り尊敬申し上げております高橋はるみ北海道知 事様、佐藤嘉大北海道教育長様をはじめ、 快くご寄稿を賜りました方々に心から敬意を表しお礼申し上げます 。株式会社パワープランナー髙木武社長、 制作部の荒木和佳子さんには大変ご苦労をおかけいたし心から感謝 します。 ここに、 私の大好きなふるさと深川に生きての自分史にまとめていただき重 ねて感謝を申し上げる次第であります。 紙面をお借りして大変恐縮ではありますが、私の妻申子は、 河野家に嫁いでこれまで、 私の青年団活動からはじまり市議会議員そして深川市長として、 それぞれの与えられた仕事に邁進できましたことは、 家業をはじめしっかり家庭を守り続けてくれたお陰であります、 妻申子に対し、心からの感謝を捧げたいと思います。 ... 続きを読む
腕白少年 1/01/2020 腕白少年 「重湯にして子どもに飲ませたいので、 白米を五合分けてください」。乳飲み子を抱えた女は、順吉の母・ 千代にそう頼んだ。 「あげるから持っていきなさい」。母・ 千代は何のためらいもなくわが家にある白米を差し出す。「 どうして大切にしているお米をあげるのか」。 小学二年生ごろだった幼き順吉は、そう思った。 生活に必要な物がない、食べる物も……。 終戦間もないころであった。 父・健一郎と母・千代がさまざまな公職を担うことを知り、 困窮した人が河野家を訪ねて来る。 ときに一時の宿として寝泊りをさせることもあった、という。 乳飲み子を抱えた女は、その後、 河野の人生の節目に大きくかかわる。河野を助け、力となった。 女は、後にこんな歌を詠む。 〈幼年の頃は毬栗(いがぐり)の可愛い子 今は深川の頭市長の笑顔〉。 乳飲み子を抱えた女性については後半楽章で記述する。 Page 28 ♪ ♪ 乳飲み子を抱えた女の視界に入った毬栗頭の少年は、 腕白坊主だった。 あれは、小学三年生ごろだったろうか――。春だった。 順吉は木によじのぼり、まだ毛の生えていないカラスの雛(ひな) を奪った。ヒーロー気取りもあった。 昼休みで宅には家人が集まっていた。 順吉が自慢げにカラスの雛を差し出す。「カラスに殺されるよ!」 。母・千代から大目玉を食らった。河野は目を細め述懐する。「 みんなあのころは腕白だったからね」 ♪ ♪ 順吉は、地元の音江村立菊丘小中学校に通う。 これも小学三年ごろだったろう。河野のいたずらっ子の一面を。 当時、年一回程度、児童生徒に校内で履く上靴が配給されていた。 数は三足。河野の記憶によれば、 当時菊丘小中学校の全児童生徒は百五十人ほどいた、という。 全員には配給されない。だれに当たるか……。 「校長の息子に当たった!」。 順吉がクラスメートのいる教室で大きな声を発した。 三足のうち一足が一級下の校長先生の息子に当たったことを順吉は 、はやし立てた。翌日、運動会の総練習のとき、 校長室に呼ばれる。 偶然のくじ引きで三足の上靴の配給先が決まったことを校長は説明 した。順吉は頭を下げた。 なのに、その夜、校長は順吉の家にやってきた... 続きを読む
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