深川に生きて 河野順吉伝 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ 1/01/2020 深川に生きて 河野順吉伝 本編は二〇一七年(平成二十九年)七月二十六日から一八年(平成三十年)十二月五日にかけて北空地新聞に五十回にわたり連載された記事を、再編したものです。 本文中の敬称を省略しました。氏名の後の年齢(( )内)は、特にことわりのない場合、連載時のものです。 Page 23 ◇ リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ コメント
第2楽章:市議・人生修練の場を郷土深川に 1/01/2020 第2楽章 市議・人生修練の場を郷土深川に 名市長とうたわれた河野順吉(79)が、"深川丸" のカジとりを担う以前、 市議を務めていたことは一般に知られてはいるが、 どんな議員だったか、 どんな活動をしていたのかを知る人は現在においてそう多くはない 。 第二楽章は、河野の市議時代を振り返る。個人的な趣味・くせ―― といったやわらかな装飾音を交えながら、「順(じゅん)ちゃん」 と慕われた市議・河野の足跡を追う。 ♪ ♪ 河野が深川市議会議員になったのは、六七年(昭和四十二年) 六月。その前年、冬季五輪の開催地に札幌が決まる。 日本は高度経済成長の真っ只中にあり、 北海道にも夢があふれていた。 「♪町が~できる 美しい町が♪」――。札幌冬季五輪のテーマソング「 虹と雪のバラード」が象徴するように、 うちからわきあがるような希望が満ちる良き時代でもあった。 そうした空気に包まれ市議を担えたことに河野は自らの幸運を感じ る、という。河野は、九四年九月まで市議( 市長選出馬のため七期目中途辞職)を担う。 <写真> 菊丘から広里へ地盤を移した4期目の遊説、 たすき姿の河野の左隣りが妻・申子、 右隣でマイクを握るのが後援会長・石川藤作、 1人おいて遊説隊長・三上閑 page 44 ♪ ♪ 「議員だった父親の背を見てはいた。 人を大切にすることだとかね。 だけど実務は当時市議一年生だった私は無知だった。 先輩市議だった佐々木実さん、 竹田稔さんにリードしていただいた。 ほんとに良き先輩に恵まれて私は幸せ者だった。 一期目も二期目もお茶くみの気持でやったもんだ」 先輩議員だけじゃない。市議をやり青年団活動も続けていた。 八面六臂――。そうした河野を周囲も支えた。 ♪ ♪ 市議になっても河野は家畜を飼っていた。妻の申子(のぶこ) が丈夫じゃないことを地域は知っている。 事情を知る隣りに住む井口春敏(現・民生委員、菊丘在住)は、 だまって何も言わず河野の家畜の草を刈りエサを用意してくれた。 「今でも家内は、『当時の夢を見る』と感謝している。地域( 菊丘)のみなさんが私たち家族を見守ってくれた。だからこそ『 菊丘のために』と思ったね」 続きを読む
第3楽章:"深川交響楽団の指揮者"に賭す 1/01/2020 第3楽章 "深川交響楽団の指揮者"に賭す 地方自治体の首長は「政治家」なのか、はたまた「事務方トップ」なのか?――。 多様な意見があるだろう。論は尽きない。ある意味、正答はない、と言ってもいい。それを担う者が自らのスタンスを定め、ぶれなければ……。 深川市という地方公共団体を"深川交響楽団"と、なぞらえて言えば、「市長」は、指揮者ともいえる。指揮者は楽団員の構成を担いながら唯一音を発しない。団員一人ひとりは市職員一人ひとりであり、木管や金管、バイオリンといった各セクションは、市組織機構の各部署に例えることもできる。 して、「聴衆」は、「市民」であろう。 テンポ、アクセントの強弱、各声部の扱い方……。同じ交響曲を演奏しても指揮者によってずい分違う。テンポを微妙に動かしうねるように早くしたり、おそくしたりして情念の塊のような演奏をした二十世紀を代表する名指揮者・ウィルヘルム・フルトヴェングラー、逆にインテンポで押し通し淡白のようで、されどその曲が内包する美しさを見事に表出したカール・シューリヒト……。 無能なオケは存在しない、指揮者が無能なのだ――。古くから西洋音楽界には、そんなことわざもある。名指揮者は楽団員一人ひとりの力を引き出す――と。指示を与え、各セクションがそれに呼応し、オーケストラ全体(音楽全体)が美しい音色を奏でるか否かは指揮者にかかる。ただ、市井(しせい)の機微に応じた指示かどうか、総じて美しい音色か否かを判断するは聴衆・市民である。 ♪ ♪ 「政治家であるべきだ」。自治体首長は「政治家」か、あるいは「事務方トップ」か――。そう河野に問うと、間髪を入れず、一顧だにせずそう答えた。 Page 70 「だからみんなの声をね拾って、ときに道や国、他団体を動かすことが大事だ。私のスタンスだ。できないものを……」。「できないものを」「できるようにする」「実現する」――。河野はそれに心血を注ぐことになる。 ♪ ♪ <写真> 初登庁の折、庁舎前で支持者・市職員の歓迎の中、 市職員より花束を受け取る河野 九四年十月十七日、深川市役所前――。深川市長・河野の初登庁だった。二日夜に当選が決まり、翌三日、市議時代の後援会 続きを読む
写真集"思い出の一コマ" 1/01/2020 写真集 "思い出の一コマ" <上> 順吉6歳 兄孝仁10 歳(1944年) <下> 家族旅行 孫が幼い頃は母・千代と河野夫妻、子供、孫と共に Page 144 <上> 市長当選のよろこび(1994年) <下> ダルマに目を入れる河野夫妻(1994年) Page 145 <上> 地元音江神社例大祭祭典委員長をつとめる 妻・申子と共に(1979年9 月10 日) 猿田彦は佐伯英夫 <下> イオンド大学名誉博士号を受章し市役所幹部職員に祝福を受ける( 1999年) Page 146 <上> 市長選の投票日に 母・千代と河野夫妻 当選を信じて <下右> 市長の顔 <下左> 市役所前庭に深川市開基110 年を記念して建てられた『大地の恵み』の像 彫刻は福井尚敏(深川出身・茨城県坂東市在住)、題字は河野による(1996 年) Page 147 <上> 新幹線にかける夢を持ち寄った北海道各界トップ 左から、河野、武井正直道経営者協会会長、 大盛義弘道経済同友会代表幹事、 小里貞利衆院議員、高橋はるみ知事、 横山末雄札幌商工会議所副会頭、 坂本JR北海道会長、山本邦彦北海道副知事(2004 年6月5 日) (小里貞利先生の60年の足跡 アルバムの中から) <下> 全国青年団出身市長会 群馬県前橋市萩原市長の招きの宴席で代表して盃を戴く河野 Page 148 <上右> 参議院議員長谷川岳先生 <上左> 長谷川岳先生(よさこいソーラン祭の立役者)の創設から、深川市で7年間続いたジュニアよさこい祭にて 日下阿久里リーダーと娘の瑞希ちゃん(4歳・河野の前) <下>友情のあかし 愛知県安城市の杉浦市長よりプレゼントされた七夕まつりの竹飾りを、市文化センターロビーに飾る Page 149 <上> まあぶ祭で料理家・ クッキングキャスターの星澤幸子先生を招いて皆さんにご紹介 <下> 佐賀県 深川製磁(有田焼)訪問時、職員の方から説明を受ける Page 150 <上> 西尾沼富鳥取市長をお迎えして、しゃんしゃん傘踊り(深川市のふ 続きを読む
青年団活動こそわが人生 1/01/2020 青年団活動こそわが人生 「もはや戦後ではない」と経済白書(五六年)が宣言したころの日本は、「協働」やら「補完性の原理」といった能書きが晴れ着をまとった言葉と映るほど幸せな時代でもあったろう。 その頃、そういった社会システムは、無形の「志」が担い、小さな集落ごとに連綿と受け継がれた。「協働」というシステムと、それを担保とする「補完性の原理」を声高に叫ぶ昨今社会は、「志」が細ってきた証しでもあろうか。 連綿と受け継がれるその「志」を自らの人生修練と課し、河野は人脈を広げ、政治信条の背骨としていく。 Page 32 ♪ ♪ 戦後じゃない――と、経済白書が宣言した翌年、河野は北海道立一已農業高校(後の深川農業高校)を卒業する。 卒業と同時に、そのころ入団するのが当たり前であった青年団の門をくぐる。「青年団活動なんです、私は。私の根っこはね、青年団なんです」 河野は入団と同時に水田連蔵を会長に据え「菊丘酪改4Hクラブ」(若い農業者らでつくる経営研究プロジェクト組織)を立ち上げる。「集団の中で人間形成しなさい」――。一已農高入学を勧めた同校の高垣泰彦主事の教えが河野の胸にあったからだ。 集団は鏡――。ことあるごとに河野は言う。「集団は鏡だね。集団が、他者一人ひとりが自分の鏡だからね。『まだまだ』『俺はもう少し頑張らないといけない』と思ったねぇー」 青年団は"火消しの若衆組"が、始祖とされる。域内の問題・課題を自ら掘り起こし力を合わせ協力して解決にあたるとともに生活の質を高めようというのが青年団活動だった。盆踊りといったイベントを手弁当でやったりもした。河野は農業を営みつつ、青年団活動に没入していく。 ♪ ♪ 河野がオリジナリティーを発揮するのは卒業から二年後。青年団のリーダーに就いた河野は、青年団と自ら結成した4Hクラブを合併して新組織・「菊丘青年会」を立ち上げ会長となる。荒業だった。菊丘に限らず、ときに対立することが少なくなかった青年団と4Hクラブ――。当時、その合併は珍しかった、と河野は述懐する。 仲良く、みんなで行動する、地域を良くする――。かくありたい、と河野は思ったからだ。実感してもらおうと河野は策に出る。 続きを読む
奥付:深川に生きて 河野順吉伝 1/01/2020 深川に生きて 河野順吉伝 ・発行:2019年3月31日 ・編者:「深川に生きて 河野順吉伝」出版記念協賛会 会長:石田 明男(元深川市議会議長) 岡 泰一(元北海道青年館理事長) 木村亀太郎(友人代表) 永峰 正幸(北空知新聞社創業者) 間山 重敏(北空知新聞社記者・執筆担当) ・発行人: 髙木 武 (パワプラ出版) 〒103‐0011 東京都中央区日本橋大伝馬町十二番地七号 電話:03−3665−2925 ・印刷: 株式会社パワープランナー 【お問い合わせ】 河野 順吉 〒074−1271 北海道深川市広里町一丁目一番二十六号 電話:0164−25−1666 ◇ 続きを読む
河野順吉伝発刊を祝して: 元深川市農業委員会会長 関下 正夫 1/01/2020 河野順吉伝発刊を祝して 元深川市農業委員会会長 関下 正夫 これまで、北空知新聞に連載されました『河野順吉伝』が、このたび統一書として出版されますことを識り、心底より嬉しく存じます。ありがとうございます。 河野さんは青年期からとても活発な行動家でしたから、多くの団体の要職に就きまして、活躍をされました。 その活動範囲は、青少年教育をはじめ社会福祉、スポーツ団体等々、誠に広範囲にわたり、東奔西走の働きをされておりました。 平成六年市民の多くが、 河野さんの行動と決断に眼を見張って絶大な拍手をしましたが、 それはこれからの深川市づくりに必要な新しい市長像を見たからでした 。 深川市長選挙の立起表明以来、 これまでにない河野さんに対する激励の人垣ができ、それが支援の輪となって、 深川市内の地域ごとに強力な草根のような後援会が生まれました。 当時、私は、 河野さんの市長選出馬が新しい世紀に翔ける豊かな深川市のまちづ くりに向けての市民の熱い期待の表れだったと思いました。 河野さんの何事に対しても真剣に取り組む姿勢と情熱、 そしていつも弱い立場の人々を考えながら、萎れる花にも涙する心の優しさを持っておられた。 また、 若い時から培った広範な人的交流と政治的センスで市民ニーズの把 握と時代の先端を的確に見つめる判断力と確かな実行力は、 これからの深川市長の理想像でありました。 当然、河野さんを中心にした輸の広がりが、 新しい風となって深川市の活力を生みだしていたものと思います。 そして、河野さんを先頭に市民と共に考え、 共に行動する新しい深川市のまちづくりに全力で邁進されましたことを心から感謝しているところであります。 時を経まして、現在、 衆議院議員として国政の場で活躍されました山下貴史様が深川市長 に就任し、精力的に市政の運営をいただいておりますことに、 敬意を表する次第であります。 結びに、このたびの「深川に生きて 河野順吉伝」の発刊を心からお祝い申し上げます。 (元河野順吉連合後援会会長) Page 12-13 ◇ 続きを読む
第4楽章:エピローグとしての「アリオーソ」 1/01/2020 第4楽章 エピローグとしての「アリオーソ」 十二年経った――。 霧の中で手探りする日々。ようやっと一つの尾根筋を見つけた。一歩、してまた一歩。重ねた。 今、前深川市長・河野順吉(80)の顔は向き合う人を安穏とさせるほどおだやかだ。 あのころの顔つきを思えば……。 ♪ ♪ 寄らば斬る――。 あの一連の騒動のさなか河野の表情はそれほど険しかった。 「なんとも腹立たしい気持ちでいっぱいだった。人に会いたくなかったね。人嫌いになった。誰にも会う気になれなかった」。医者知らずの頑健な身体が自慢だったが、ストレスで河野は体調を崩す。 一連の騒動が、ほぼ収束しつつある〇七年二月――。河野は宅に戻る。しばらくは、ひきこもる日々が続いた。 家にこもり本を読む毎日。アルバムをめくる河野の手がピタッと、とまる。あるとき何気なく開いた写真アルバムが一筋の光となって"霧を裂く"。はっ、とし、見入った。たくさんの笑顔が並んでいた。市長時代に自ら提案してやった「笑顔の写真コンテスト」の作品だった。たくさんの笑顔が河野の目を"むんずとつかんで離さない。" 笑顔――。 どんなときも忘れちゃいけない。自らにそう言い聞かせ、心かよう人にも笑顔の大切を説きながら忘れていた。失っていた。河野は気づく。 「人生を暗くしちゃいけない。笑顔をたたえ、もっと前に出て行こう」 ♪ ♪ Page 114 かつて自らの信条でもあった笑顔の尊さに気づいたころ、河野に前を向かせる報があちこちから舞い込む。 「あなたは、人が良すぎた」「弱気にならず今まであなたがやってきたことをこれからも続けなさい」「悔しさをバネに冷静に再出発して」「あなたの頑張り屋をもう一度みたい。必ず信頼できる人のところへ人は集まるよ」「悩みは過去。正しく受け止めて自分を取り戻して」――。先輩や友人・知人からの激励の手紙や電話だった。 古今東西とかく人は風見鶏である。世俗的利得を前提に人は離合集散するが常なれど、がけっぷちにあった河野から人が離れない。河野がそれまで重ねた他者への応報が果となった。 <写真> 市民の懐に飛び込み共に笑顔を浮かべる市長時代 続きを読む
青の時代 1/01/2020 青の時代 順吉が小学四年か五年生のときだったろう。母・ 千代がテントの生地を切り、 針で丁寧に縫って中に綿を入れキャッチャーミットをつくってくれ た。「走るのは駄目だったけど野球が好きだったからね」。 順吉はキャッチャー役となり、ピッチャー役兄・ 孝仁のほおる球を受け遊んだことを懐かしく思い起こす。母・ 千代ら周囲の愛情をいっぱいに受け、順吉は中学を卒業する。 ♪ ♪ 「自分の人生の土台というのかなぁー、基になったね」。順吉は、 北海道立一已農業高校(後の深川農業高校)の定時制に入る。 逸話がある――。菊丘から自転車で通学したのだ。 山奥の菊丘から当時あった函館本線神居古潭駅(旭川市神居古潭) までを。距離にして十七㌔ほど。それから順吉は汽車に乗る。 深川駅で降り一已農高まで歩く。四年間続けた。 Page 30 牛や馬のエサをやらなければならない。朝六時から農作業をやった。午前十一時に宅に戻る。飯を食う。午後一時、自転車にまたがる。うまず続けた。 ♪ ♪ 「彼が菊丘から難儀して通っている姿を見てね、『自分も頑張らなくちゃならない』って思ったね」。そんな順吉の姿を生涯の友となる同級生の木村亀太郎(79)=深川市音江町内園、元東邦金属取締役深川工場長=は見ていた。 冬季(十一月~四月)、順吉は学校寮に入る。亀太郎と同室だった。互いに「亀さん」「順ちゃん」と呼び合う仲となる。河野は往時を述懐する。「彼は向学心に燃える、それでいて人なつっこい性格でね。信頼していた」。木村は、鮮烈な印象を河野から受ける。「物事にしっかり取り組むなんともいえない人格的なものを感じた」 実は順吉と亀太郎は共に、当時一已農高定時制の主事をしていた高垣泰彦(後に深川市選管委員長)から乞われて入学していた。「定時制に通う生徒の中には『なんで俺がこんな……』って思う人もいた。だけど、『ぜひほしい』と言ってくれた高垣さんのおかげで私は大手を振って通ったし、期待に応えたい、とも思ったねぇー。木村さんも同じ気持だったんじゃないかなぁー」 <写真> 前列右端から順吉と担任の新田先生、亀太郎(後列右から二人目)=木村さん提供 ♪ ♪ 「おい、 続きを読む
本サイトについて 1/01/2020 本サイトについて 本サイト制作者の寺内昇&郁子(北竜町在住)は、北竜町集落支援員としてインターネットサイト『 北竜町ポータル 』を運営管理し、北竜町の魅力の取材・発信を行っています。 北竜町の歴史を掘り起こす中で、町内の 田中盛亮(たなか もりすけ)さん 、 黄倉良二(おうくら りょうじ)さん から空知青年団の活動の素晴らしさ、河野さんの素晴らしさを教えていただきました。 そして、北空知新聞の連載記事「河野順吉伝」を読み、感銘を受けました。『深川に生きて』が出版された後、「本の内容をインターネットで公開し、より多くの人々に北海道の青年団が築いてきた北海道北空知の歴史と魅力を知っていただいただきたい!」と思うようになったのです。 河野さんに書籍のインターネットでの公開を提案させていただいたところ、ご快諾いただきました。そして、北空知新聞、関係者の許諾とパワプラ出版の許諾及び資料提供をいただき、今般、インターネットでの公開をすることができました。関係者皆様のご協力に心より感謝いたします。 なお、本サイトの制作は、寺内昇 & 郁子が自発的に作成させていただきました。インターネットで「人の情熱が世の中を作る」という情報を発信できるご縁をいただけたことに、心より感謝いたします。ありがとうございました。 2020年1月1日 寺内昇 & 郁子 ▶ 関連記事 <北竜町ポータル> 北空知青年団OB会総会並びに河野順吉さん『深川に生きて』発刊記念祝賀会 (2019年) ◇ 続きを読む
幅広い活動は地域の宝:北空知青年団OB会会長 田中 盛亮 1/01/2020 幅広い活動は地域の宝 北空知青年団OB会会長 田中 盛亮 昭和三十六年、私は北竜町青年団体連絡協議会委員長の任を受け、北空知青年団体協議会(北青協)の初会議に出席致しました。 当時の北青協は、十二ヶ町村(江部乙を含む、深川市合併前) で構成されていました。私は、前年まで町青協の役員でもなく、北青協の役員の方は殆ど面識のない人ばかりでした。自己紹介があり、その時初めて各町村の団長さん、委員長さんを知ることが出来ました。 その中で、「私は音江のカワノジュンキチでございます」と紹介が有り、コウノでないんだと確認致しました。 その後、会議の中でも河野さんの言葉使いや態度に接し、 田舎者の私には劣等感と感激を覚えたことは今でも脳裏から離れません。私の妻も音江出身で、 夫婦共々友達的な付き合いをさせていただき、議会活動も含め今日まで約六十年、 変わらぬご指導を賜りました。 昭和四十一年、河野さんは北青協の会長を経て、 道青協の副会長に立候補致しました。当時は青年団活動も活発な時代で、役員選挙も激戦で、 毎回二分する戦いが繰り広げられましたが、副会長候補の河野さんは両陣営から支持され、 満票に近い成績で当選されました。それ程全方位に信頼があったと云うことです。 その後、道青協会長、日青協副会長、日青館理事等を務め、 その人柄は誰からも信頼され、広く人脈を築いたことでした。父、健一郎さんも人格者で、 数多くの公職を持ち、家族あげて公に尽くされた一家でした。 村議六期、市議一期務められた健一郎さんも病に倒れ、 五十九歳の若さでこの世を去りました。地域の星をなくした菊丘では、その後任に息子の順吉さんを推し、 見事当選させました。若き二十九歳の春でした。 副議長を含め市議七期務めた河野さんは、 五十六歳の若さで市長選に挑み見事当選したのでした。 河野さんは市長四期途中退任するまで一生を公にささげた人でした 。 この度「深川に生きて 河野順吉伝」発刊の知らせをいただきました。私は、五〇 回の連載を全て切り取り、時あるごとに目を通しております。 私は河野さんのことは全て承知しているつもりでしたが、 十分の一も知っていなかったことを恥ずかしく思っております。 大きな仕事をする方は必ずそのことを支える奥さんの姿があります 続きを読む
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