青の時代

青の時代

 順吉が小学四年か五年生のときだったろう。母・千代がテントの生地を切り、針で丁寧に縫って中に綿を入れキャッチャーミットをつくってくれた。「走るのは駄目だったけど野球が好きだったからね」。順吉はキャッチャー役となり、ピッチャー役兄・孝仁のほおる球を受け遊んだことを懐かしく思い起こす。母・千代ら周囲の愛情をいっぱいに受け、順吉は中学を卒業する。

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 「自分の人生の土台というのかなぁー、基になったね」。順吉は、北海道立一已農業高校(後の深川農業高校)の定時制に入る。

 逸話がある――。菊丘から自転車で通学したのだ。山奥の菊丘から当時あった函館本線神居古潭駅(旭川市神居古潭)までを。距離にして十七㌔ほど。それから順吉は汽車に乗る。深川駅で降り一已農高まで歩く。四年間続けた。
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 牛や馬のエサをやらなければならない。朝六時から農作業をやった。午前十一時に宅に戻る。飯を食う。午後一時、自転車にまたがる。うまず続けた。

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 「彼が菊丘から難儀して通っている姿を見てね、『自分も頑張らなくちゃならない』って思ったね」。そんな順吉の姿を生涯の友となる同級生の木村亀太郎(79)=深川市音江町内園、元東邦金属取締役深川工場長=は見ていた。

 冬季(十一月~四月)、順吉は学校寮に入る。亀太郎と同室だった。互いに「亀さん」「順ちゃん」と呼び合う仲となる。河野は往時を述懐する。「彼は向学心に燃える、それでいて人なつっこい性格でね。信頼していた」。木村は、鮮烈な印象を河野から受ける。「物事にしっかり取り組むなんともいえない人格的なものを感じた」

 実は順吉と亀太郎は共に、当時一已農高定時制の主事をしていた高垣泰彦(後に深川市選管委員長)から乞われて入学していた。「定時制に通う生徒の中には『なんで俺がこんな……』って思う人もいた。だけど、『ぜひほしい』と言ってくれた高垣さんのおかげで私は大手を振って通ったし、期待に応えたい、とも思ったねぇー。木村さんも同じ気持だったんじゃないかなぁー」

<写真> 前列右端から順吉と担任の新田先生、亀太郎(後列右から二人目)=木村さん提供

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 「おい、原稿できた。読むから付き合え」。真冬の雪景色を背景に順吉が弁論をやる。亀太郎は時間を計り聞き役をした。「説得力があった。明晰(めいせき)な論旨で上手だったよ」。亀太郎は述懐する。一九五五年、二年生の河野は校内の弁論大会で優勝し、静内であった「全道農業高校第八回弁論大会」に出場する。このとき、北海道立岩見沢農業高校生だった高松孝行(79)=岩見沢市在住、現・岩見沢市社会福祉協議会会長=と出会う。後に河野と高松は青年団活動を共にすることになる。

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 順吉と亀太郎の担任は新田正夫先生だった。スポーツマン的人柄は生徒から慕われた。「新田先生の明るさ、それと河野さんを中心としたいいクラスだった」。亀太郎は、順吉が当時からリーダーとなる人格を有していた、と証言する。「彼は『善一元』の人だと思うよ。多くの人との交わりを通して生き方の手本をいただいたんじゃないか」

 一方で順吉は、もてたのか――である。「いやー、彼にそんな浮いた話しは……。だけど私はすでに心に決めた人がいたと思うよ」

 当の河野は、もじもじと顔を赤くするばかりではっきりしない。されど、亀太郎の感は当たっていた。高校を卒業して五年後、順吉は同じ菊丘に住む三つ下の女性を伴侶に迎え、自らの政治信条の背骨ともいえる道に突き進んで行く。


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