第4楽章:エピローグとしての「アリオーソ」

第4楽章 
エピローグとしての「アリオーソ」


第4楽章: エピローグとしての「アリオーソ」
 十二年経った――。

 霧の中で手探りする日々。ようやっと一つの尾根筋を見つけた。一歩、してまた一歩。重ねた。

 今、前深川市長・河野順吉(80)の顔は向き合う人を安穏とさせるほどおだやかだ。

 あのころの顔つきを思えば……。

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 寄らば斬る――。

 あの一連の騒動のさなか河野の表情はそれほど険しかった。

 「なんとも腹立たしい気持ちでいっぱいだった。人に会いたくなかったね。人嫌いになった。誰にも会う気になれなかった」。医者知らずの頑健な身体が自慢だったが、ストレスで河野は体調を崩す。

 一連の騒動が、ほぼ収束しつつある〇七年二月――。河野は宅に戻る。しばらくは、ひきこもる日々が続いた。

 家にこもり本を読む毎日。アルバムをめくる河野の手がピタッと、とまる。あるとき何気なく開いた写真アルバムが一筋の光となって"霧を裂く"。はっ、とし、見入った。たくさんの笑顔が並んでいた。市長時代に自ら提案してやった「笑顔の写真コンテスト」の作品だった。たくさんの笑顔が河野の目を"むんずとつかんで離さない。"

 笑顔――。
 どんなときも忘れちゃいけない。自らにそう言い聞かせ、心かよう人にも笑顔の大切を説きながら忘れていた。失っていた。河野は気づく。

 「人生を暗くしちゃいけない。笑顔をたたえ、もっと前に出て行こう」

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第4楽章: エピローグとしての「アリオーソ」
 かつて自らの信条でもあった笑顔の尊さに気づいたころ、河野に前を向かせる報があちこちから舞い込む。

 「あなたは、人が良すぎた」「弱気にならず今まであなたがやってきたことをこれからも続けなさい」「悔しさをバネに冷静に再出発して」「あなたの頑張り屋をもう一度みたい。必ず信頼できる人のところへ人は集まるよ」「悩みは過去。正しく受け止めて自分を取り戻して」――。先輩や友人・知人からの激励の手紙や電話だった。
 古今東西とかく人は風見鶏である。世俗的利得を前提に人は離合集散するが常なれど、がけっぷちにあった河野から人が離れない。河野がそれまで重ねた他者への応報が果となった。

<写真> 市民の懐に飛び込み共に笑顔を浮かべる市長時代の河野

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 象徴するように、ここに一枚の招待状がある。

 「深川市をはじめ社会福祉関係に多くの業績を残された河野順吉さんには、目下、青少年の育成を主にご活躍されておられますが、この度、縁(ゆかり)のある方がたのお運びを頂き、河野さんを励ます会を開催するはこびとなりました」。一一年(平成二十三年)十月五日、札幌であった河野を励ます会の案内である。

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第4楽章: エピローグとしての「アリオーソ」

 発起人には、書家の小川東洲・JR北海度会長(当時)の坂本眞一・元道副知事の松田利民・JAきたそらち組合長(当時)早崎優美・北海道教育長(当時)の高橋教一・札幌商工会議所会頭(当時)高向巌・元道議会議長の釣部勲・現道議会議員の和田敬友・現札幌深川会の会長村木靖雄ら二十二人が河野を囲んだ。

 一連の騒動から五年を経て、有志が河野を温かく囲む。そんな宴であった。

 「私自身ほんとにうれしかった。大感激したね。言葉では言い表せない。もう一度笑顔を取り戻して……、もう一度、社会に貢献したい」。河野は強く思った。

 そんな河野を有志は、ほっておかない。

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 河野は再び導かれるように自らを創りあげてくれた原点に"立ち帰る"。


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 宅にこもり本ばかり読んでいた河野は、ちょっとずつ自らを取り戻していく。

 「仕事を与えられることは、非常に人生で得がたい、ありがたいことだ。皆さんのご協力をいただき頑張る決意をした」。〇七年、新しい公益法人制度の施行をにらんで北海道青年会館は、それまでの財団法人から一般財団法人化に向け、内部に改革特別委員会を立ち上げる。その委員長に常任顧問である前深川市長・河野順吉(69・当時)へ白羽の矢が立つ。

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 道への幅広い人脈を買われた。青年団の同志は河野をほっておかなかった。失意にあった河野は、自らが必要とされること、仕事を与えられることを率直に喜んだ。
 自らの人間としての礎(いしずえ)を、根っこをつくってくれた原点である青年団活動に河野は再び回帰する。「(青年団は)修練の場所だった。集団は鏡であり、
体験を通して教養を身につけ自ら学習しなくちゃ……。人間は、のほほ~んとしているだけでは駄目だ。挑戦しなければ。人生努力なしでは駄目ですもん」

 高校卒業と同時に身を投じた若き青年団活動がよみがえるように河野は再び前を向く。

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 「私はね、青年団活動なの。青年団活動こそ我が人生」――。昔から河野はそう繰り返してきた。

 「北海道青年団史」(北海道青年会館発行)によると、青年団の起源は、源流とされる「若連中」(村落単位に自然派生した青年集団)が記された古文書(建久四年、一一九三年)があることから鎌倉時代初期にさかのぼる、とされる。紆余曲折を経ながらも綿々と受け継がれ、一九二一年(大正十年)には、日本青年館が建設された。
 青年団は著名な政治家を数多(あまた)輩出する。島根県出身で首相を務め日本青年館の理事長も担った竹下登、長崎県出身で文部大臣や参院議長を務めた西岡武夫……。

 「青年団あがりの政治家は、強い信念を持つ人が多かったね。人と人とのつながり、きずなを大事にする」。河野市長を支えてくれ、よろしく頼む――。来札した際、河野に同行し迎えてくれた市の職員に竹下はそんな趣旨の手紙を送っている。筆まめと細やかな心遣い――。河野と竹下は似る。

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 平成が終わろうとする今、青年団関連の数々の活動が河野の頭をよぎる。来年四月、退位する天皇、皇后両陛下の若き姿がよみがえる。七〇年、札幌国際冬季スポーツ大会(プレオリンピック)に絡み来道中の後に天皇、皇后両陛下に即位する皇太子殿下・同妃殿下と「あすをつくる青年開発会議」の前議長として会食し歓談したことは忘れがたい思い出のひとつだ。

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 河野が再び前を向き始めた〇八年七月二十二日、母・千代が亡くなる。九十五歳だった。一連の騒動――。千代は我が子・河野順吉に一切何も言わず、逝った。「母は一言も口にしなかった」。それゆえに河野には胸に重く響く何かを感じる。「入院中の母は、私と申子(妻)が見舞いに来るのを楽しみにしていた」。深川市内に入院する母・千代を河野と申子は、ほぼ毎日のように見舞った。

 「お父さん(河野)、お母さん(申子)お世話になったね」。千代はそう言葉を落とし、二日後に息を引き取った。

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 一三年(平成二十五年)――。河野は北海道青年団OB会の会長を任せられた。

 夢がある――。齢(よわい)を重ねた青年団の男として……。


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 ここが……。感慨が河野順吉の胸をかすめた。「レンガ色というのかなぁー、どっしりした建物で圧倒されたね」

 六二年春――。河野は北海道青年団を代表して「全国青年問題研究集会」に派遣される。上京した河野はこのとき初めて日本青年館(東京都新宿区霞ヶ丘町)の威容を目の当たりにした。周辺には明治神宮があり、神宮外苑のイチョウ並木が美しい。国立競技場の槌音が二年後に迫る東京五輪のムードを高める。日本青年館を取り巻くなんともいえない薫りに河野は魅了された。日本は高度経済成長真っ只中でもあった。

 「ここが日本青年団の城だと思った。日本のスポーツと文化の殿堂かと……」

<写真> 日本青年館の元理事長で首相を務めた竹下首相(右)と河野= 97 年9月、札幌で

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 「全国青年問題研究集会」で、各地の青年団リーダーと意見を交えた河野はある種の挫折を味わう。
 「『発言しないほうがいい』。恥かしく自らの勉強の足りなさを痛烈に恥じたよ。もっともっと勉強しなければ、とね……」

 日本青年館で三日間の研修を終えた河野は胸に刻む。「『もう一度来たい、いや必ずまた来るぞ!』って強く思ったよ」。日本青年館の玄関を出た河野は消沈するどころか胸膨らむような快活さを覚えた。河野二十四歳。申子との結婚が控えてもいた。

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 自らの根っこをはぐくんだ青年団を河野はこう評する。「修練の場。社会を明るくして住みよい郷土づくりにまい進する。コミュニティーづくりだね」

 全国の青年団活動に取り組む多くの先輩に導かれ薫陶を得てきた。佐賀県の平野重徳、香川県議長を担った大西末廣……。憧憬する先輩は共通した。決断が速い。

 ことに「青年団の父」とも称される佐賀県鹿島が生んだ田澤義鋪の精神を後世に伝えようと取り組む「田澤義鋪記念館」の会長を務める平野は河野にとってヒーローである。「だらだらしていては駄目だと。平野先生のようにパッ、と決断を速くしようと……。市長時代には見習い実践しようとしていたね」

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 〇四年までの二期四年間、河野は北海道青年会館のトップである理事長を担う。「農村の疲弊がね、そのまま青年団活動の衰えとなっている。私が残念だなぁーと思うのは、スマホとか、あーゆうものではほんとのコミュニティーづくりは難しいと感じる。ほんとのつながりがもてるのか心配だ」

 河野は昨今の青年団活動の衰えを憂い、同じ価値観で群れることの多い社会に不安を覚える。

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 一三年、理事長を退いた後、常任顧問である河野は「北海道青年団OB会」の会長に就く。「こんな私を引き立て前に押し出してくれる同志に感謝している」

 夢がある――。OB会が取り組む北海道命名百五十年・OB会設立四十周年を記念した「北海道青年団史」(仮称)の一九年三月の出版だ。「私はOB会の会長として若い人に歴史を学んでもらいたい、と強く願っているの」。先達は、なぜ、どうして、どんな思いがあって、どんなに汗してやったのか――。そうしたことに思いをはせてほしい、と河野は願う。そうした思いを込めた「北海道青年団史」にしたい、と……。

 河野が憧れた初代日本青年館は役目を終え、もはやない。二代目も引退した。昨夏(一七年八月一日)、現代建築の粋ともいえる三代目となる新日本青年館の竣工記念式典に河野は招待される。新しい日本青年館が再び河野の心をわしづかみにした。

 「また来たい!」

 青年団史出版と新日本青年館。

 河野八十歳。いまだ夢の途中である。

<写真> 17 年8 月1 日にオープンした三代目となる日本青年館=日本青年館提供


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 一見個性が強そうに見えて実は……という人は意外に多い。多くが自意識が強い一種のハッタリ屋にすぎないことは齢(よわい)を重ねた読者ならご承知だ
ろう。

 過剰な自意識は自己の心の内奥にもう一人の自分を飼い慣らす、という遊戯で終わるが常だ。

 前深川市長・河野順吉という男は、一見個性に乏しいかのように見える。

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 ハッタリをかましたり、突飛な言動は少ない。故(ゆえ)に河野を無個性と認識する人がいる。恥かしながら筆者もその一人だった。だった、という過去形となるのは齢を重ね河野という一つの個性・人格がようやく腹にはいった、ということだ。

 河野という男は個性あふれる。豊か、と言っていい。

 いつも心が開いている。ガバッ、と大きく。多くの人はその時々の立場・状況に応じてパクパクと開けたり閉じたりするが常だ。あるいは常に閉じているか。いつも心をガバッ、と開けている男は、そういない。他者は安心を得るだろう。

 心がいつも開いている――。

 そうしたオーラに接した人々の声を数回にわたり拾う。

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 石狩川流域圏四十八市町村の首長が一堂にがん首をそろえ、自然と人間の共生をテーマに川を核に据えて広域的まちづくりを考える「石狩川サミット」――。
 提唱した同実行委の相談役で北海道総合研究所長を担った浅田英祺(85)は、石狩川サミットを機縁に河野を知る。

 〇三年、深川であった「第七回深川サミット」で交わりを深めた。このとき、「石狩川サミット憲章」が採択される。

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 「初めて会う人は、ほとんどの方が私を『コウノ』と呼びます。『カワノ』でございます。『カワノ』と呼んでください」

 川に関する会合に引っかけた河野一流のウイットで、場の空気を一瞬にしてやわらげた。

 サミット席上、他四十七首長を前に河野がしたあいさつを浅田は昨日のことのように覚えていた。

 「河野さんは心のうちに強いものを抱く個性あふれる人だったが、けして飛び出さない人でもあった。ある意味、自分を売るのがものすごくうまい人だったね。政治家らしくない謙虚さも併せもっていた」。飛び出さない、政治家らしくない謙虚さ――。

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 されど、流域自治体の四十八首長と長年接してきた浅田にして河野はその中でもとりわけ存在感があった、という。

 「首長として一級品だった」と――。

 河野は識見豊かな学者肌の浅田を尊敬し、石狩川サミットの実質運営を担う豪腕にも一目置いていた。なんせ、全首長一人ひとり三分間のスピーチをノルマに課す会合である。「浅田さんは学者肌だが、人の絆(きずな)を大事にする温情深い人だった。浅田さんがいなかったら石狩川サミットは成功しなかったよ」

<写真>「第7回深川サミット」で「石狩川サミット憲章」を発表する浅田(左)と河野(右)=03 年11月7日

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 文人からも慕われる。

 小紙連載の「北空知周辺の文人・文学・文化」を執筆する深川市出身で相模女子大学名誉教授・文芸評論家の志村有弘( 77 )は「河野さんは人を差別しないんですよ。主義主張が違う人には『ご指導いただきました』と言う。悪口を言わない人だ。ああいう人柄は、いろんな人との付き合いから磨かれたんじゃないかねぇー」。志村は河野を尊敬し、今も交わる。

 「当時東京に住んでいた私の同級生の男が『深川に住む母親が病気になったときに河野さんが病院の世話までしてくれた。ほんとに親身になって助けてくれた』って、『忘れられない』って言ってました」


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 公務を担いたゆまない日々を重ねる周囲をほっ、とさせ、ときに岐路に立ちすくみ逡巡する後進の若き背をそっ、と押す――。

 周囲が語る前深川市長・河野順吉(80)像を二つ。

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 「紳士的な方だった。温厚で物腰がやわらかく愛くるしい」。選良たる市長の職を担う、つわものと相対し、各市間の連絡調整を図る北海道市長会の事務局長を六年半担った白藤芳春(80)=札幌在住=は、河野の印象をそう語る。

 公正・公平を担保しながら自治体間の調整を図りつつ道内三十五市それぞれの発展に寄与することは大変な公務といえる。そうした公務を担う北海道市長会の事務局の職員を河野は、ほっ、とさせた。

 「年齢が私と同じでね、河野さんには懇意にしていただいた。けして上から目線じゃない。みんなと一緒の目線でどんな人とも対等にお話されていた。事務局職員は、みんな河野さんを気持ち良く迎えていましたよ」

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 〇三年、河野は北海道市長会の副会長を担う。二年後の〇五年には全国市長会の副会長の要職に就き、翌年には全国市長会の相談役となった。「若いときから青年団活動で活躍されていたと周囲から聞いていた。あの物腰のやわらかさは、そんなところから培われたのかなぁーと」。河野は往時を振り返り「白藤さんは誠実な方で強い信念があった。常に平等に公平公正に見てくれた。私は今でも尊敬している」。

 深川市政のカジとりにも大きな功績があった、と白藤は評価する。

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 「深川のために一生懸命におやりになっていた」。道や中央省庁に出向き、深川のためになすべきこと、実現すべきことを非常な熱意を持って精力的に動きまわる河野の姿を白藤は鮮烈な記憶として刻んだようだ。

 「『ライスランド構想』、市立病院の改築もやられましたね。大きな事業をよくやられて私ども(事務局も)も感心しておりました。河野さんの人徳と幅広い交流がなせることだった」

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 北海道市長会は、春と秋の年二回総会を開き、中央省庁への陳情・要望項目をまとめる。河野はこうした陳情活動をいとわなかった。むしろ「『局長、私ならいつでも協力するから』と言っていただいて陳情団の先頭に立って積極的に参加していただいた。『ありがたいなぁー』と私の脳裏に残っている」(白藤)

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 熱き思いを焦がし、政(まつりごと)に身を投じようとする若き後進の背も押す。

 「あれは衝撃的な選挙でしたね。私が市議に立起する直前でした。河野さんが市長選に立候補したときは非常な驚きでした。勇気づけられたことを覚えている」

 道立深川西高校を卒業した道議で、自民党・道民会議道議員会の会長を担う東国幹(50)=旭川市区=は、河野が草の根運動を展開し、深川市長に初当選するのを驚きをもって見つめた。触発されるように翌九五年、旭川市議選に立起した東は初当選を果たす。

 「縁があって深川にも思いをはせてくれる人で感謝している。人なつっこい肌ざわりの良い男で誠実に物事を処理してくれ懇意にさせていただいている。これからますます政治家として大きく羽ばたいてほしい」。北海道の発展のため河野は東に大きな期待を抱く。

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 その後、東は道議となった。「人柄が良く、『柔よく剛を制す』というか……。政治家として目指すべき背中ですよ」。東は、河野の人柄の良さ、人脈を培う姿勢に、政治家かくあるべし――の共感を抱く、という。

 市井(しせい)にもその人柄は慕われた。
 「今度会ったら、よろしく伝えて」。取材先で懐かしがるようにそう言われたことが幾度あったことか……。

 前深川市長・河野順吉(80)である。中央省庁や要人に限らない。名もなき市井からも慕われた。

<写真> 北海道市長会の事務局長・白藤(左)と河野=秋季北海道市長会定期総会、03 年10月10日

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 「市長ガンバレー!」。からかうようなあったかいヤジが飛び交う。「あがるんだよ。意外だけどね。セリフがぶっ飛ぶんだ」

 忘れもしない光景だった。アートホール東洲館(深川市二ノ九)の館長・渡辺貞之(78)は、おかしくてたまらない、という風にニッターと笑みを浮かべた。

 市民が脚本・演出を手がけ舞台にも立つ演劇に当時市長の河野も出る。三回ほど出演した、という。

 「おじさん、どうしてセリフ覚えてこないのさー!」。出演する深川っ子は一生懸命にセリフを覚え練習にやってくる。公務の合間をぬい練習にかけつけた河野に子どもは容しゃない。真っ正直に物言う。「ごめん! ごめん!」。必死に頭を下げる河野。「そのとき、この人は、いい人だと……」。渡辺は、そう思った。

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 深川はお年寄りが多い。お年寄りを元気にするいい考え・アイデアはないか――。市長になって間もない河野が、そう渡辺に相談したのが親交を深める端緒となった。
 お年寄りを演劇に出演してもらい明日を思う気持ちをはぐくもう――。「(深川)浪漫劇団(劇場)」が産声を上げるきっかけをつくる。河野は自らもステージに立ったのだった。

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 「こんな美術館どこにいってもないよ。河野さんの生き方にほれてやっているわけ。意気に感じてさ」。元教諭で、全道展会員でもある画家・渡辺はアートホール東洲館の館長を担い十八年になる。

 入館者からお金をいただかない。「市民から入館料を取るのは税金の二重取りだ」。渡辺に河野はそう言ったそうだ。

 「政治家というより人情家だよね、人徳者であって……。誠実のかたまりみたいな人さ、市民の市長だね」。河野は今もひと月に一回はアートホール東洲館に顔出し、渡辺と雑談を交わす。

 「まどろみのマチづくり。『市民がまどろめる、そんなマチづくりをしたい』って言っていたのを覚えている」。渡辺は河野のそんな思い・考え方がたまらない、と。

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 もう一人河野を好く男がいる。

 「文化・芸術を大切にしてくれた。いろんな立場の人の意見を汲み取ってくれたよ」

 当時、深川市文化交流ホール「み・らい」の運営を担うNPO「深川市舞台芸術交流協会」の事務局長を担い、現在、NPO「アートステージ空知」の理事長を務める青木勝美(71)は、河野が深川と北空知の文化に温かな目を注いでくれた、と振り返る。

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 「文化を担う人を育ててくれた。ぼくもそうだし、ほかにもいっぱい!」。「み・らい」などの文化施設をいかに市民が使いやすい憩いの場とするか、河野は心砕いた。

 「深川と北空知の文化人をすごく大切にしてくれた。優しい中にも厳しさがあった」

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 河野の手法をハコ物行政(大型投資事業中心)と揶揄(やゆ)する声がある。されど河野は言う。「ハコに魂が入った」――と。ハコに魂が入ることでハコは空虚な器とならない――。河野にはそんな自負がある。

 「ハコに魂をいれてくれたのは渡辺館長や青木さん、深川の文化・スポーツを愛する人みんなのおかげだね。感謝している」
 二〇一八年――。齢(よわい)八十を数えた河野は北海道命名百五十年の節目に特別な感慨がある、という。


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 どこか雅でアコースティックなトンコリと神秘的なムックリの音色が重なりとけあうなか神話が紡がれる。舞台を仰ぐ前深川市長・河野順吉(80)は、なんともいえない不思議な気持ちとなり心動かされていた。

 二〇一八年八月五日、北海道立総合体育センター「北海きたえーる」――。天皇皇后両陛下のご臨席を賜る「北海道150年記念式典」だった。「北海道青年団OB会」の会長として河野はその場にいた。「アイヌ民族の方々が北海道の地にどれだけ貢献してきたかをかみ締めていた」。アイヌ民族の伝統芸能に耳そばだて見つめるうちに河野は五十年という長くもあり短くもある歳月への感慨に落ちる。

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 五十年前。
 一九六八年九月二日、円山陸上競技場(札幌市)――。「北海道百年記念式典」に三十歳の河野は参列していた。この年、第一回青年ジェットの指導者の一人として米国に視察に行った河野の胸は満帆の希望にあふれていた。

 ときの昭和天皇のお言葉を賜る。北海道青年団協議会の会長として参列した河野は「『しっかりしなければ』という気持ちをあらたにした」。

 あれから五十年、「北海道150年記念式典」に参列し、アイヌの伝統芸能に耳そばだて仰ぎ見る河野の胸に五十年前の先住民族への配慮を欠いた式典への忸怩(じくじ)たる思いがよぎったかもしれない。

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 アイヌの伝統芸能を間近に見つめる天皇皇后両陛下の姿にも河野は心動かされた。皇太子殿下のときから河野は園遊会など折々の公的な場で天皇皇后両陛下の姿に接してきた。

 アイヌの伝統芸能を身を乗り出すように見つめる齢(よわい)を重ねた天皇皇后両陛下の姿と自らの老いを重ね、ときの移ろいの感慨が河野の胸を満たす。

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 実は、アイヌが奏でる雅な音色がホールに満ちる前から河野の胸中はウエットだった。

 「アイヌの方々がはぐくんだ自然への畏敬の念や共生の思想などを大切にし、誰もが互いを大切にし支えあう……」。式辞する道知事・高橋はるみを仰ぐうち、河野は歴代の知事の姿がよみがえるのをおぼえた。

 五十年前の一九六八年の「北海道百年記念式典」のときは、道知事・町村金五が式辞した。「町村さん、堂恒内(尚弘)さん=町村の後継道知事=は青年団活動に非常に深い理解を示し助力をいただいた」

 歴代の知事の姿が浮かぶ。横路孝弘、堀達也……。

 「横路さんは一村一品運動をおやりになった。深川も大きな励みとなった。堀さんは、コミュニティー、ボランティア、NPOの三つの組織を一つにまとめる提案をなされ『北海道地域活動振興協会』設立に尽くされた。理事長として私が就くことになった……」

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 高橋知事が式辞する姿を仰ぎ見ながら、はるか遠い過去へ河野の思いは飛ぶ。「高橋知事は、人なつっこく、それでいて芯の強さをお持ちの方で、北海道消防大会の際は深川に一泊してくださった」

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 今夏、懐かしい男が河野を訪ねてきた。八十を前に、胸抱く夢を河野にぶつけに来たのだった。小泉政権時代に農水大臣を務めた岩永峯一(77)。青年団活動を共にした盟友で、今も滋賀県青年会館の理事長を担う。

 無垢な少年のように満面の笑顔を浮かべる岩永。「アグリ工房まあぶ」内のレストランで食事しながら河野は岩永と親交を深めた。

<写真> 岩永(右)と河野(中)18年夏、「アグリ工房まあぶ」内のレストランで


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 繰り言を――。

 地方自治体の首長は「事務方トップ」なのか、あるいは「政治家」であるべきなのか――。

 多様な考え・意見がある。正答はあるのだろうか。ただ、行政には一定程度の継続性が求められる。ころころと施策が目まぐるしく変われば民は落ち着かず安心できない。

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 されど、継続性を重んじ前例踏襲の安全性の担保に安住しすぎれば批判が噴出する。民の批判の常套句は「あの人(首長)は何をしたいのか分からない」――。

 ならば数十年に一度、時代の変せんの際「政治家」タイプの首長が行政を担い、事務方トップ的首長が平時を担うが良い、とも思える。

 多様なご意見はあろうが前深川市長・河野順吉(80)は紛れもなく「政治家」タイプの首長だった。

      ♪       ♪

 「コメのまちです」――。
 そう答えられるようにした。その一点だけでも河野が深川市長を担った意味・価値が存する。
 コメを核にしたまちづくりに異論のある市民もいたろう。ただ、こうゆうマチづくりをやる――というくっきりとしたシルエットを描き名もなき市井(しせい)にも浸透させた意味はシンプルなれど深い。

 本州の旅行先で深川をまったく知らない人にどんなところか尋ねられ、「コメのマチ」――と答える市民は多いに違いない。

      ♪       ♪

 船に例えるなら"深川丸"の航路を明確に示し、舵(かじ)を切る。評価は割れるが河野はそうしてきた。まぎれもなく……。

 "農"担う人に温かな視線を注いできた。深川市音江町稲田で花栽培を中心にコメ作りもする渡邊滋典( 62 )は「河野さんのキャラクターですよね。あの分け隔てない人への接し方、お人柄ですよ。親しみやすい、いい市長さんだった。間違いなく深川の歴史にその名を刻む方で、まぁー、農家から見て河野さんは、いい種まきじいさんだったのかなぁー(笑い)」。

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 〇一年(平成十三年)、東京都世田谷区から妻・安美を伴い新規就農で深川市音江町稲田に来た内藤敬人(49)――。渡邊を師とも仰ぐ花の栽培農家だ。

 内藤は、市長・河野にとって新規就農の第一号だった。


第4楽章: エピローグとしての「アリオーソ」
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 「こちらに縁があって深川に来たとき市長だった河野さんに会う機会を設けていただいた。そのあと市の職員の方が深川市内を案内してくれた」。大都市では考えられない歓待に内藤は恐縮したが感激もした。

 「就農した私たちのことを気にしてくれまして……。〇一年一月の台風でハウスが飛ばされたときもわざわざうちのところに見舞いに来てくれた。もう、事あるごとにヒョコヒョコ(笑い)と……」。市長・河野は、内藤がうまいことやっているのか心配でならなかったらしい。

 就農初年――。最初にとれた農作物を手に内藤は河野に会いに行く。「河野さんが、ものすごく喜んでくれて、それが忘れられません。深川は農業で成り立っているまちであること、そのために大事にしなければ、という思いが河野さんからすごく伝わってきた」

<写真> 母校・道立深川農業高校の生徒と交わる市長・河野

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 河野とともに二人三脚で深川農業をけん引してきた男がいる。

 「その場で反発したり異議を唱えたりはけっしてしない。それでいて後日、『私はこう思う』と自分の考えをしっかり伝えてくれる。研究熱心で、慎重に物事を判断される男だ」

 十数年ほど前――。深川・北空知のコメ作りがいつまでも"元気であるよう"熱情傾けるその男は、なりふりかまわない行動に出る。


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第4楽章: エピローグとしての「アリオーソ」

 公用車を降りて玄関に入ると意外な男が立っていた。

 〇五年(平成十七年)三月、深川市中央公民館――。

 深川市立高等看護学院の卒業式に参列するため玄関ロビーに入った深川市長・河野順吉(当時)の目の前に「JAきたそらち」専務・早崎優美(当時)=現・JA北海道信連経営委員会副会長(69)=が立ちはだかった。

 思い余ってのことだった。少し時間を頂戴したい――とする早崎を河野は館内の応接室に招いた。

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 前年の〇四年、食糧法改正に伴いコメは大幅な規制緩和の洗礼を受けていた。コメの産地間競争がより激しさを増す。

 より高品質なコメを安定的に出荷するシステムがなければおくれを取る――。

 そのころ、コメどころ深川・北空知のブランドは確立しつつあったが現状にあぐらをかくだけでは衰退する、と早崎は危機感を抱いていた。

 早崎は専務となった〇二年ごろから籾(もみ)のまま集荷し、乾燥・調製・貯蔵するカントリーエレベーターの必要性を深川市の農業担当者に説き支援を訴えてきた。整備には三十億円前後が必要だ。深川市は難色を示す。協議は遅々として進まない。ときは過ぎる。 

 三年のときが流れた。直談判しようにも公務の詰まる河野はつかまらない。「もう、いてもたってもいられなかった」。河野が高看の卒業式に来るとふみ、早崎は会場の中央公民館ロビーで張った。

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第4楽章: エピローグとしての「アリオーソ」
 「何がなんでもお願いしたい!」。早崎は頭を下げた。河野は、早崎の一本気な姿に打たれた。「なにか悲痛な感じさえあった」。その場で河野は携帯電話を取り出す。農政を所管する職員に電話し、前向きに検討するよう指示をした。

 整備事業費の半分を国が、地域経済の屋台骨を担う視点から深川市が残る半分のうち三分の二の支援を英断。事業主体「JAきたそらち」の補助
申請に際して河野は農水省に出向き、企画調整課長と会い協力を乞うた。

 「非常にありがたく、河野さんはよく決断してくれた」

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 カントリーエレベーターは〇七年度に供用が始まり、五年後に増設。「深川マイナリー」の愛称で親しまれ、高品質で、ばらつきのないコメを安定的に出荷できる体制が整う。深川産米のブランド強化の強力な助っ人を担う存在となった。「これまで個人で調製してきたことをカントリーエレベーターがやってくれる。省力化が図られ高齢化に伴う労力不足による離農にも一定程度の歯止めを果たしている」。早崎はカントリーエレベーター整備に伴う有形無形の恩恵は計り知れない、という。

<写真> 日本一のコメ産地形成の強力な助っ人・カントリーエレベーター「深川マイナリー」
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第4楽章: エピローグとしての「アリオーソ」
 「黄倉さんは農業に対して研究熱心な方で、その姿に私はいつも心打たれた。竹を割ったようなスカッとしたいい男だ。早崎さんとは本州に深川のコメをPRに行ったとき、その熱心な姿にものすごく心ひかれた」

 河野は、「JAきたそらち」の元組合長・黄倉良二、前組合長・早崎――と良い人に深川は恵まれた、と述懐する。

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 「私は幸せ者だった」。河野は自らの半生を振り返る。「市長は孤独なもんですよ。それだけに市職員みんなが強力してくれたことに、今はありがたい、という思いでいっぱい」。青年団・市議会と、そのときどきに自らを引き立ててくれた人にめぐりあえた。「私は幸運児だった。感謝だね」

 現深川市政について河野は「厳しい財政事情の中で、市長さん(山下貴史さん)が先頭に立って市職員とともにご尽力いただいていることに敬意を表する。山下さんには、体に気をつけ市民の幸せのために頑張っていただきたい」


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 カツッ、カツッ、カツッ……。

 森閑とした空間に乾いた音が響く。

 二〇一八年九月三十日、「広里ふれあいパーク」(深川市音江町広里)――。ポプラなどの広葉樹がうるわしい園内を、"でこぼこ"のシルエットが動いてゆく。

 前深川市長・河野順吉(80)の妻・申子(77)が"奏でるウォーキングポールを突く音色"がいい。

 自宅近くの公園を散歩する。二人のささやかな楽しみの一つだ。

      ♪       ♪

 「寄り添ってくれる人(夫)が今いる。そばにいてくれるから私は安心。勇気がわいてくる」。難しい病を抱えるようになって十数年が経つ。齢(よわい)を
重ね、申子は、ちっちゃくなった。

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第4楽章: エピローグとしての「アリオーソ」

 若年期には青年団活動で道内外を飛びまわり、市議会議員として公務を担う、市長になれば、それはもうあちこちと……。河野は、じっ、としていなかった。「結婚してもずーっ、と単身みたいだった」。笑って話す申子だが、当時は細る気持ちで日々を重ねた。今は順吉がいつもそばにいる。それが申子の表情をやわらかくする。「互いが心の杖(つえ)となっているの」

      ♪       ♪

 表舞台をおりてからの十二年間――。河野は難しい病を抱える申子に寄り添う日々を重ねた。「人のありがたさをかみしめる」。ありとあらゆる人への感謝の思いが河野を満たし、支えた。

 毎朝六時に起きる。顔を洗う。神棚と仏壇に米と水を供える。

 深川と深川市民を 河野家を守ってください――。神棚に手を合わせ河野は口ずさむ。仏さんには「般若心経」をあげる。あげおえるころラジオ体操が始まる。この十二年間、うまず、怠らず……。

 朝ごはんを食した後、二人は近くの「広里ふれあいパーク」内を散歩する。四月から雪が積もるころまで。河野は二キロほどを、申子は一キロ弱を……。午後はリハビリを兼ね申子を買い物に連れ出す。

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 河野は台所に立ち菜を刻む。この十二年間で、料理の腕をめっぽう上げた。焦げないよう鍋の底に昆布ををひろげる、水をオタマに三杯、醤油(しょうゆ)を入れ、みりんと砂糖を入れる。落し蓋(ぶた)をする――。魚の煮付けは申子から教わった。カレイの煮付けなど河野はうまいものだ。

 「カレーライスがおいしい」。申子は、そうほめてくれるそうだ。政治の世界にいるころは少し短気だった河野だが「今は心が穏やかになってうれしい。落ち着いて私を見てくれる」。申子は夫・順吉が政治の世界から身を引いてからの十二年間をあっ、という間だった、と……。〈一度決めたら/二度とは変えぬ〉――。大好きな美空ひばりの「人生一路」の歌詞の一節のような気持ちで夫・順吉に寄り添ってきた。今は、順吉が申子に寄り添い面倒をみる。

 これまでの人生を振り返り、申子は「私たち夫婦ごときに仲人を六十三組させていただいた。私の人生の一番の喜び」と。

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第4楽章: エピローグとしての「アリオーソ」
 河野の生を俯瞰(ふかん)すると、常人にはない大きな特徴に気づく。河野はサラリーマンの経験が一切ない。若年期にいっとき農業で糧を得たが、青年団活動 → 地方議員 → 市長――。ほぼ生のすべてが「公」への務めだった。

 社会福祉向上のために心くだき、行動する――。生きることそのものが公的活動だった。その歳月が常人にはない独特の価値観・信条を培ったことは容易に想像できる。それは、会う人が恐縮するほどの腰の低さ――という姿・形をとる。すすっ、と、気づかないほどほんのわずか後ずさりしつつ両太ももに両の手をあて頭(こうべ)
を下げる姿にえもいわれぬ風格が漂う。こうはできない。国学者・本居宣長が記した「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」を体現する、感さえある。本居さんが言わんとし
たのは、こうゆうことか、と……。意ハ・心持は真似しやすい、姿や形となってにじむように表出してこそ本物、と。河野の頭を下げる姿は本物を醸す。

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 生を重ねることそのものが公の務めであった河野は、われ知らず独特な郷土への熱き思いをはぐくんだ。熱き思いは通奏低音となって半生を貫く。

 十二年前、表舞台を降りて間もない河野には木枯らしが吹いていたろう。寒風すさぶ木枯らしの中、河野は砕け散った自我を一つひとつ丁寧にひろい集めてきた。そんな日々を重ねた。

 河野は深川を去ることもできた。しなかった。何故? 聞いた。

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第4楽章: エピローグとしての「アリオーソ」
 下を向き、二度ほどうなずく……。膝の上で両の手をからめ、もじもじと右の親指で左の親指をこすりつつ頬(ほお)を紅に染め、しぼり出すように発した。ボソッ、と。

 よろずの思いを束ねた"言の葉は和音"となった。

 「私は深川が好きだ」

*「アリオーソ」=音楽用語。語る・「レチタティーボ」と、歌う・「アリア」の中間的な音楽形式の一つ。

<写真> 河野(左)と妻・申子=18年9月30 日、「広里ふれあいパーク」で


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