第1楽章:出生・幼少期

第1楽章
出生・幼少期


第1楽章:出生・幼少期 夏となれば辺り一面除虫菊の花が覆う。純白のジュウタンを敷き詰めたような美しく清涼な風景――。幼き小さな胸は鮮明に記憶していた。

 除虫菊の栽培が盛んだった旧音江村菊丘(現・深川市音江町菊丘)で河野順吉は、一九三八年(昭和十三年)三月三十日、父・健一郎、母・千代の三男として生を受ける。

 大正の初めごろ、河野家は菊丘におちつく。田畑を耕作し、果樹も手がけた。山林の面倒も見る。河野の記憶によれば、家には馬・牛・豚・ヒツジ・ニワトリ・ウサギまで飼っていた。機械化されてない時代。大変な重労働であったに違いない。

 父・健一郎は、冬の間は造材作業に従事し、馬頭(材運搬の長)として一家を支えた、という。

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 河野家は公職一家であった。

 父・健一郎は、音江村議六期・深川市議一期を務めたほか、農協・町内会・PTAの役員も担う。母・千代も農協婦人部長や村の民生委員を務めた。一家を支えるための農作業と家事に追われながらも健一郎・千代は、公的な務めをいとわなかった。

 「公」「他者」に尽くす――。

 河野の気質は、幼少からそうした父母の背を日常的に見つめ血肉化し、形成されたと思われる。

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 「自ら実行して見せてくれる人だった」。河野は父・健一郎をそう振り返る。写真に残る健一郎は、肩幅の広い、ある意味いかつさを醸す偉丈夫とみえる。

 「芯の強い。才覚のある人だった。判断力もね」。母・千代を語るとき河野は、ちょっぴり能弁になるようだ。写真に残る千代は聡明さを醸す端正な顔立ちをしている。「おやじについてゆくお袋も大変だった、と思うよ」。河野は大人になってから、周囲から母・千代に顔立ちや気質がそっくり、とからかわれたそうだ。

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第1楽章:出生・幼少期
順吉には、兄・孝仁(長男)がいる。ほかに長女・静枝、二女・節子。二男は出生間もなく病で亡くなった。

 兄・孝仁は幼少から右足が不自由だった。ために、順吉は幼少から知らずこう思っていた。「家を継ぐ。農業をやって、この家を守らなくちゃならいないとね」。順吉の幼心には早いうちから大黒柱の精神が知らず植えついた。

 孝仁は日本大学法学部卒業後、衆議十一期を務めた元自治大臣・篠田弘作(自民党)の秘書となる。渡辺省一(後に自民衆議・科学技術庁長官)と高橋辰夫(後に自民衆議)とともに孝仁は秘書として篠田の指導を仰ぐ。

 「青年期に入ると兄から篠田先生の話しを聞いたりして男として憧れた」。政治への関心が芽生えた最初のきっかけは、兄・孝仁がつくったかもしれない。篠田のスパッとした決断力と采配の速さ、生一本の男らしさにひかれた、と述懐している。河野は後に篠田の北空知における後援会の青年部長を担うことになる。

<写真> 河野家に残る写真、1938 年ごろと思われる。後列左端・河野健一郎、前列右端・河野千代と膝に抱かれた順吉、前列右から3人目が兄の孝仁

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第1楽章:出生・幼少期
「父母への感謝だね。生み育ててくれたことにね……」。誰もが口にする言葉――。されど河野には通り一遍じゃない実感として父と母への感謝を深く胸にしまう。父・健一郎と母・千代がなした他者への一つひとつが、その後の自らの生をどれほど助けたか。河野は、それをいたいほど知っているから……。

 父と母がなしたこと、それは幼心にも鮮やかな情景として記憶に刻まれ今も温かな和音が胸に響く。

 あれは、終戦間もない食糧難のときだった。乳飲み子を抱えた一人の女性が河野家を訪ねて来た。

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