腕白少年

腕白少年


 「重湯にして子どもに飲ませたいので、白米を五合分けてください」。乳飲み子を抱えた女は、順吉の母・千代にそう頼んだ。

 「あげるから持っていきなさい」。母・千代は何のためらいもなくわが家にある白米を差し出す。「どうして大切にしているお米をあげるのか」。小学二年生ごろだった幼き順吉は、そう思った。

 生活に必要な物がない、食べる物も……。終戦間もないころであった。

 父・健一郎と母・千代がさまざまな公職を担うことを知り、困窮した人が河野家を訪ねて来る。ときに一時の宿として寝泊りをさせることもあった、という。

 乳飲み子を抱えた女は、その後、河野の人生の節目に大きくかかわる。河野を助け、力となった。

 女は、後にこんな歌を詠む。

 〈幼年の頃は毬栗(いがぐり)の可愛い子 今は深川の頭市長の笑顔〉。乳飲み子を抱えた女性については後半楽章で記述する。
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乳飲み子を抱えた女の視界に入った毬栗頭の少年は、腕白坊主だった。

 あれは、小学三年生ごろだったろうか――。春だった。順吉は木によじのぼり、まだ毛の生えていないカラスの雛(ひな)を奪った。ヒーロー気取りもあった。昼休みで宅には家人が集まっていた。順吉が自慢げにカラスの雛を差し出す。「カラスに殺されるよ!」。母・千代から大目玉を食らった。河野は目を細め述懐する。「みんなあのころは腕白だったからね」

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 順吉は、地元の音江村立菊丘小中学校に通う。これも小学三年ごろだったろう。河野のいたずらっ子の一面を。

 当時、年一回程度、児童生徒に校内で履く上靴が配給されていた。数は三足。河野の記憶によれば、当時菊丘小中学校の全児童生徒は百五十人ほどいた、という。全員には配給されない。だれに当たるか……。

 「校長の息子に当たった!」。順吉がクラスメートのいる教室で大きな声を発した。三足のうち一足が一級下の校長先生の息子に当たったことを順吉は、はやし立てた。翌日、運動会の総練習のとき、校長室に呼ばれる。偶然のくじ引きで三足の上靴の配給先が決まったことを校長は説明した。順吉は頭を下げた。

 なのに、その夜、校長は順吉の家にやってきた。順吉は、とっさに父と母に上靴の件を話しに来た、と思った。びっくりもし、悔しい思いもあったのだろう、家にあがった校長の革靴の中に順吉は、そーっと水を入れた。

 「翌日は運動会だったからねぇー、うちのおやじ(父・健一郎)はPTAの役員をしていたから今思えばね打ち合わせに来ただけだった、と思うよ」。用件を済ました校長は革靴に足を入れたとたん素っ頓狂な声を上げた。河野の意地っ張りな側面と茶目っ気が躍如するエピソードである。

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 人は時代的にしか生きられない、という。その土地の気候・風土が人格形成に与える影響も少なくない。

 「菊丘は山間のへき地で決して恵まれた土地ではなかった。みなさん大変なご苦労を重ねて生きていた」。幼き順吉は当時の菊丘と開拓民の姿を目に焼き付けていた。小さき胸は、われ知らずこう刻んでいた。「所せん裸一貫だもん。子どもごころにもよーく分かっていた」。と、同時に菊丘には助け合いのあったかいコミュニティーがあることも……。こぶしをきかすように感慨を込め河野は述懐した。

 タフでなければ生きていけない、やさしくなければ生きる資格はない――。米国の作家レイモンド・チャンドラーが記したように……。
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