第3楽章:"深川交響楽団の指揮者"に賭す
第3楽章
"深川交響楽団の指揮者"に賭す
"深川交響楽団の指揮者"に賭す
地方自治体の首長は「政治家」なのか、はたまた「事務方トップ」なのか?――。
多様な意見があるだろう。論は尽きない。ある意味、正答はない、と言ってもいい。それを担う者が自らのスタンスを定め、ぶれなければ……。
深川市という地方公共団体を"深川交響楽団"と、なぞらえて言えば、「市長」は、指揮者ともいえる。指揮者は楽団員の構成を担いながら唯一音を発しない。団員一人ひとりは市職員一人ひとりであり、木管や金管、バイオリンといった各セクションは、市組織機構の各部署に例えることもできる。
して、「聴衆」は、「市民」であろう。
テンポ、アクセントの強弱、各声部の扱い方……。同じ交響曲を演奏しても指揮者によってずい分違う。テンポを微妙に動かしうねるように早くしたり、おそくしたりして情念の塊のような演奏をした二十世紀を代表する名指揮者・ウィルヘルム・フルトヴェングラー、逆にインテンポで押し通し淡白のようで、されどその曲が内包する美しさを見事に表出したカール・シューリヒト……。
無能なオケは存在しない、指揮者が無能なのだ――。古くから西洋音楽界には、そんなことわざもある。名指揮者は楽団員一人ひとりの力を引き出す――と。指示を与え、各セクションがそれに呼応し、オーケストラ全体(音楽全体)が美しい音色を奏でるか否かは指揮者にかかる。ただ、市井(しせい)の機微に応じた指示かどうか、総じて美しい音色か否かを判断するは聴衆・市民である。
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「政治家であるべきだ」。自治体首長は「政治家」か、あるいは「事務方トップ」か――。そう河野に問うと、間髪を入れず、一顧だにせずそう答えた。
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「だからみんなの声をね拾って、ときに道や国、他団体を動かすことが大事だ。私のスタンスだ。できないものを……」。「できないものを」「できるようにする」「実現する」――。河野はそれに心血を注ぐことになる。
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<写真> 初登庁の折、庁舎前で支持者・市職員の歓迎の中、 市職員より花束を受け取る河野
九四年十月十七日、深川市役所前――。深川市長・河野の初登庁だった。二日夜に当選が決まり、翌三日、市議時代の後援会長で、師とも仰いだ石川藤作と一緒に当選証書の付与に臨んだ。
「市民の幸せのためにやってやる! 勉強もしなきゃ……」。河野は初登庁までの間、闘志をみなぎらせていた。
初登庁には大勢の市職員が出迎えてくれた。その中に、市井の顔がいっぱいあった。名もなきおじちゃん、おばちゃんが河野を拍手で迎えた。「順ちゃん頑張ってねー!」「おめでとう!」
女性職員から花束を受け取った後、河野は市長室に入った。助役・村木武(当時)から幹部職員を紹介された後、河野は庁舎大会議室で市職員を前に就任のあいさつをした。
「市民とともに語り、ともに考え、ともに行動しよう」。河野は市長選のときに訴えた市民参加型の市政運営を職員に訴えた。
「それまでに市民から、いろんなニーズを聞いてきた。『○○してマチをよくしたい』『○○となれば助かる』とか、そうした声をもっともっと聞きたいと思った」。市長初就任時を河野はそう振り返る。と、同時に河野は、自らだけじゃなく市職員にもそうした市民の声を生で聞く機会を持ってもらいたい、と強く願った。
市民ニーズを基に市長と職員が課題を共に共有する機会を持つ――。
具現に向け、河野はタクト(指揮棒)をおろした。
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助役・収入役・教育長に各所管の部課長が顔をそろえる。
初登庁から、ほどなく開いた庁内会議――。「公約の一つ『市民参加のまちづくり』を実現させるため『市民会議』を立ち上げ、早い時点で開催したい」。深川市長になって初めての庁内会議で河野順吉は、そう指示した。
長年の青年団活動と市議七期の経験から河野は、地方自治体は、もっともっと民の声を聞く機会があっていい、と感じていた。行政・公の論理にしばられすぎてはいないか? そんな疑問もあった。
「『市長こうしてほしい!』みたいな直談判があっていい」。河野は、そう感じていた。それを具現するのが一般市民がまちづくりの在り方や深川を取り巻く諸課題を話し合う市民会議だった。
市長・河野の指示を受け、企画室(当時)が動く。
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具現は、はやかった。
二カ月後の十二月二十六日、深川市民会館(当時)――。
「第一回ふかがわ市民会議」には一般市民六十六人が集う。「市民参加のまちづくり」をテーマに五グループに分かれて論を重ねた後、全体会議で各グループが収れんした内容を紹介した。
市民が自ら主体となって運営する。「ふかがわ市民会議」の真骨頂があった。
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「協働」――。「ふかがわ市民会議」が設置されたころは、この熟語が一般に浸透し始めたときと重なる。されど、「協働」は、晴れ着をまとった言葉のようで、とかく理念にとどまるが常だ。行政文書、あるいは選挙のお飾り熟語に堕すケースは少なくない。理念にとどまる「協働」を、なんとか具現しよう、としたのが河野だった。
自助・公助・共助による「補完性の原則」を柱の一つに掲げる「協働」は、取り組めば取り組むほど、それぞれの役割が明確となり、住民の自治意識をはぐくむ。河野は、長年の青年団活動を通したコミュニティー運動で、それを血肉化するほど知っていた。
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潜む市民の声をすくう――。そんな「ふかがわ市民会議」は、十二年間続く。市街地・音江・あけぼの・納内・多度志――など各地区を会場に計二十二回開いた。
「深川の魅力をみつけよう」「ふるさとへの想い」「地域振興」「総合計画の策定に向けて」「市町村合併」、市立病院改築――など、そのときどきの諸課題もテーマに掲げ、市民らはワイワイガヤガヤと意見を交えた。
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「緻密な人だった。いろんなアドバイスをしていただいて……」。「ふかがわ市民会議」の運営主体を担う運営委員会委員の桶谷利夫=多度志=の名を河野は挙げ、「市民会議を成功させようと一生懸命やってくれた」と感謝する。
九十一歳となった桶谷は、往事を振り返り「河野さんからは、深川への熱い思いを感じた。深川は寄合所帯(合併してできた)でしょ、だから市民会議をやってよかった」と。
一方、運営委員だった兎本弘子(稲穂町)は「『新日本婦人の会』として応募した。いろんな声を聞くスタンスはいいんだけど、市民の声をすくい上げるうえでどうだったか……」。釈然としない思いが残る、という。
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妙案・名答を得るが目的じゃない。結果じゃなく意見を交わすことそれ自体の機会の創出に「ふかがわ市民会議」の真の価値があった。とかく敷居が高いとみられがちな市政への民の参画意欲の醸成というベクトル。その価値は計り知れない。
じん速に市民会議を立ち上げた一方で、就任早々、河野は人知れず難題を背負っていた。
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「それ以前に報道があってね。絶対に許されない、賛成できないと考えていた」。幌加内町の当時の町長・峰岸政義(82)は、往事をそう振り返る。
深名線(深川――名寄間、一二一・八㌔)の存廃――。深川市長に就いて間もない河野は、その重い荷を抱えていた。
「峰岸さんは厳しかった」。河野は、三つ年上で、一年ほど先に首長に就いていた峰岸から、厳しいオーラを感じた。
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「あ! きたな!」。河野は瞬時に思った。九四年十二月初旬――。JR北海道から打診があった。札幌市内で会合を持ちたい――。
同月十日、沿線の深川・名寄・幌加内・風連の四自治体の首長を札幌市市内のホテルに招きJR北はバス転換を正式に提示する。
「社内で検討を重ねた結果、バス輸送が地域に合った交通手段との結論に達した。バス転換後は当社が責任を持って運行し、これまで以上にきめ細かい輸送サービス提供に努めていきたい」。「JR北海道この十年」(北海道旅客鉄道発行)は、当時のJR北社長・大森義弘のこのときのあいさつを、そう記している。
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深名線の延長距離のほぼ半分を占める幌加内の民が鉄路廃止に猛反対を合唱する。「賛成という気持には全然なれない。一地方の問題じゃない。北海道全体の交通体系を考えるべき」。峰岸は道に対し、かなり厳しい言葉で迫った。
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このころ、深名線の一日平均の乗降数は百人前後。名寄線が廃止された時点で、深名線もいずれは……。一方で、名寄と風連は幌加内とは若干温度差があった。
「多度志方面の沿線住民から特別強い反対はなかった。一日の乗降数を考えると現実を見据える必要を感じていた」。起点・深川駅を抱える首長・河野は、隣りで長年歴史を共にし、仲良くしてきた幌加内のことを思っていた。峰岸の厳しい姿がまぶたにあった。
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河野の幌加内への思いは、市議時代から交わりを持つ名寄市長・櫻庭康喜(当時)も共有していた。バス転換提示前の十二月初旬に一度、下旬にもう一度、JR北の役員が来庁し訪ねるが、河野は居留守を使う。幌加内への気遣いだった。
深名線のバス転換提示から十八日後の十二月二十八日、沿線四自治体の首長で構成する「JR深名線問題対策協議会」が発足する。会長に河野が就く。河野はその数日前、陳情で上京した際、議員会館を訪れ衆議・渡辺省一の事務室でJR北専務の坂本眞一(当時・後に社長)と会っていた。渡辺がお膳立てしたものだった。
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「今なら支援金として一億円を考えている」――。坂本が示した地域振興支援金を河野は協議会初会合で他の三首長に伝えた。
とんでもない!――。額が少ない。反応は鈍かった。されど、国鉄再建法(八六年廃止)で信用が担保された時代は去り、公器の意味合いが強いなれど法的担保は淡い。
信義を基盤に条件闘争しかない――。翌九五年五月、「JR深名線問題対策協議会」は、バス転換に同意する。
この間、河野は上京のたびに都内のホテルで地域振興支援金の額を坂本ともんだ。「峰岸さんは、町民のことを思って最後まで厳しい態度を崩さなかった」。幌加内へできるだけ――の思いがあった。
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十億円(JR北非公表)――。配分は、幌加内町六億円、深川市二・五億円、名寄市一億円、風連町〇・五億円。
これで良かったのか? 多様な意見がある。されど正答なんぞはあるのか?
深名線存廃にゆれるころ、河野は自身のライフワークとなる深川の礎を築こうとしていた。
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突然、声を荒げるように語気を強めた。
「農業は、ずっと下積みだった!」。衒(てらい)、歯の浮くような答えに納得できない記者が無礼を覚悟に何度も何十度も同じ質問を繰り返した挙句、前深川市長・河野順吉(80)は激するようにそう言い放った。
河野が長年胸にしまっていた苦い思いが、その構想の根源にあった。
ライスランド構想――。「私自身農家だったし、生産性の低いところ(菊丘)で生まれ育ったひがみというのかなぁー……」。深川経済の屋台骨を担う農業に携わる人にいい思いをしてもらいたい、誇りを抱いてほしい――。その気持をエンジンに、この大きな構想は芽吹く。
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稲作文化が広まった弥生以降、コメは特別な存在だったろう。中央集権体制が確立した律令は「公田」と称して、「民」を「公」のものとし、田に縛りつけ一部の特権階級がうまい汁を吸う。
「農」は、「民」の胃袋を支える尊い「業」なれど虐げられてきた、といえる。軽視――。そうした精神風土はDNAのように引き継がれ、ついほんの少し前まで眼前の事実としてあった。
ここ十五年ほどであろう「農」が脚光を浴びるようになったのは。誰もが知る歌手が、俳優が、忙しいスケジュールの合間を縫い大都会を離れ地方のマイ農地でコメや野菜を作り、その喜びを発信する。
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今じゃ、「農」は、カッコイイあこがれの職業の一つ、となった。されど、河野が深川市長に就いたおよそ四半世紀前、そうした考え・認識は一般に浸透してない。
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そうした意味で河野が選挙公約に掲げ提唱した「ライスランド構想」は、時代・時流を先取りする試みでもあった。
深川の農業の素晴らしさを全国に発信することで都市と農村を結び交流人口を増やして地域振興を図ると同時に農に携わる人に自らの「業」に誇りを抱いてもらえる、と河野は信じた。
ライスランド構想は、▷生産・技術 ▷生活・文化 ▷自然・空間 ▷交流 ▷発信・継承――の五つの基本スタンスをとる。
農業の生産技術の向上を目指した研究施設の整備や担い手不足解決に向けた就農研修システムの構築、農村ならではの生活文化の継承・伝達、農村景観づくり、異業種・都市部住民との交流、国内外への発信――などの細目から成る。
これら葉脈のように広がる細目の具体の受け皿空間となるのが、「はぐくみの里」(生産技術と人材育成)、「ぬくもりの里」(向陽館・農村文化継承と交流促進)、「いざないの里」(道の駅・情報発信を担う)、「ふれあいの里」(「アグリ工房『まあぶ』・交流施設)――だった。
<写真> 河野(左から5 人目)、右隣り道議・岡田憲明、1 人おいてJAきたそらち組合長・黄倉良二= 03 年7月1 日
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米のまち深川――。農の営みの尊さ、すごさを伝え、都市部住民との交流人口を増やしてマチの活性を図る。
河野は、深名線のバス転換方針が固まった九五年初夏、自らの選挙公約の柱の一つである「ライスランド構想」を練る母体となる産学官が一体となった組織を立ち上げるよう所管となる企画室に指示を出す。良かれ――という思い・考えを大枠のビジョンで示す。有識者・民の考え・思いもすくい、事務方は制度設計を担う。河野のやり方は政治家そのものだった。
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「みんなが真剣になって考える、みんなの構想にしたかった」。河野は、自ら提唱する「ともに語り、ともに考え、ともに行動しよう」を具現する組織を思っていた。
その年の夏――。
ある男が発した言葉に河野は、胸がいっぱいになる。
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九五年夏――。深川市長・河野順吉(57・当時)は、拓殖大学北海道短期大学の副学長室に入るやいなや副学長・佐竹徹夫が発するあったかい言葉に包まれ、小躍りしたい気持になった。
「私もずっと願っていたことだ。できる限り協力する」。河野の「ライスランド構想」を人づてに聞いていた佐竹は、我が意を得たりという勢いで河野を迎えた。
「温厚・誠実な学者肌で慎重な物言いをするひとだった」(河野)。その佐竹から発せられた賛意に河野は意を強くした。
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バブル崩壊後の九〇年代、北海道は平成不況にあえぐ。暗雲が立ち込めていた。河野が「ライスランド構想」に着手した、そのころ北海道拓殖銀行は設立以来九十五年で初の赤字に転落。いやな空気が北海道を覆う。絵に描いた餅にならないか――。壮大な「ライスランド構想」に内心は不安を抱いていた。故に佐竹のあったかい賛辞が河野の腹にしみた。
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副学長・佐竹を核に市の企画室長・百貫榮光と企画課長・坂本龍彦らで組織立ち上げの準備を重ねた。注目したいのは河野が組織立ち上げを指示してから設立までに要した期間だ。指示したのが九五年初夏、設立・初会合が九六年五月。およそ一年を要している。「なにがなんでも有名無実に終わることにないように、熟慮に熟慮を重ねて慎重にやった」。河野は往事をそう振り返る。
「ライスランド構想策定委員会」は、副学長・佐竹を委員長に、北空知広域農業協同組合連合会会長・東千平、多度志農業協同組合副組合長・佐藤眞昭、深川商工会議所会頭・芳賀昭雄、深川消費者協会会長・岩崎八重子ら産学官の代表者二十一人で構成。策定委員会の設立・初会合から二週間ほどして、下部組織・幹事会も立ち上げる。幹事会で具体をもみ一定の方向性を収れんし、策定委員会に諮る、という方式をとった。
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一年ほどかけ、幹事会六回、策定委員会四回の会合を重ねた。河野は九七年三月十四日、「ライスランド構想」を記者発表する。深川経済の屋台骨・「農」を担う人にいい思いをさせたい――。そんな願いを根っこに「農」という「業」の尊さを市内外に発信し、都市部住民を招き交流人口を増やし深川を元気にする。必然「農」を営む人は自らの「業」に誇り・自信を持つだろう。
それを具現したのが「はぐくみの里」(農業の生産技術と人材育成)、「ぬくもりの里」(向陽館・農村文化継承と交流促進)、「いざないの里」(道の駅)、「ふれあいの里」(アグリ工房まあぶ)――だった。
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農業学科のある拓大道短大と、生産技術の向上を担う「きたそらち農協営農センター」を整備した一帯は「はぐくみの里」として健在だ。開設からわずか一年で百万人を突破した「米をテーマ」にすえた「道の駅ライスランド ふかがわ」は、「四つの里の中で一番成功した」(河野)。ただ、「『ぬくもりの里』は、半分失敗だった。地元の農産物を地域全体で盛り上げていこう、と思ったが……。私自身の責任であり反省している。だけど、画家・高橋要さんの『向陽館』は深川の顔となっていてうれしいね」。
「ぬくもりの里」は半分失敗と、河野は率直に認める。されど「市職員・策定委員さんの頑張りと関係機関の協力があって『ライスランド構想』は八〇点はいただけると思っている。やって良かった」
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齢(よわい)八十になる河野の農への思いは今も深い。その河野が「もう少し早く会いたかったなぁー」という男がいる。
<写真> 2000 年秋、深川市内であった「
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バブル経済崩壊以降の九〇年代、新しい価値観を求める精神的飢餓の中、ベストセラーとなったのがドイツ文学者・中野孝次の「清貧の思想」(草思社)である。拝金主義・経済効率優先社会にどっぷり浸かった日本人に本阿弥光悦、良寛、吉田兼好、西行の暮らし・生の処し方は、胸しみるものがあったに違いない。
そうした時世に、「農」が、単なるパンを得るだけにとどまらない尊い「業」という認識が浸透しだす。さらに「農」は、魂を癒し、人間性を回復させる力を宿す――。そう教えたのが相馬暁だった。
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経済効率優先への疑義にあふれる時世に深川市長・河野順吉(当時)が手がけた「ライスランド構想」は、ある意味時流に乗った、ともいえる。幸せな事業でもあった。二〇〇〇年――。「ライスランド構想」が具現に動き出してほどなく道立農業試験場長を退職した相馬暁は拓大道短大の環境農学科長(教授)として深川に来る。
「深川から、これからの農業を全国に発信しよう」。市長室にやって来た相馬は、「ライスランド構想」に賛意を示し、河野にハッパをかけた。
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「農業に対する思いが誰よりも強いことを節々に感じた。豪快な飾らない人だった」。河野は相馬を好きになる。相馬もしかり。そして相馬は、「農」を大事にしようと躍起となる深川を好いた。
相馬は、これからの深川・北海道の農業のあり方を多様な側面から提示した。セミナーや公開講座をいっぱい開く。相馬の直さいな物言い。新しい価値観。農を営む人は刺激を受け、「農」という「業」に誇りを抱き前を向く。
民の胃袋を支える「農」の営みを消費者に発信して理解してもらうことを前提とする「食農教育」の大切さを相馬は終生訴えた。
食農は、「農」を営む人が再生産できる価格で支える(報酬が得られる)仕組み・フェア・トレー深川に生きてドを育てる――と。
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農への熱き思いにまかせ行動する相馬は、そのまま「ライスランド構想」の具現に向けた急先鋒を担う。農業の生産技術・人材育成を核にした「はぐくみの里」のソフト事業そのものだったし、知名度の高い相馬を慕って深川に来る人も多く地域活性化にも一役買い、「農」のマチ・深川の強力な宣伝マンともなった。「相馬先生のおかげで構想を進める私も市職員も元気が出たし、『やっていることは間違いない』という自信となった」(河野)
<写真>「第36 回農業セミナー」の実行委員長を務める相馬暁= 02年、拓大道短大
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河野と相馬は馬が合った。よく酒を飲んだ。夏だった――。「アグリ工房まあぶ」敷地内で河野と相馬、市職員を交えバーベキューをした。酒をこよなく愛した相馬は、その夜もジンギスカンに舌鼓を鳴らし、ビールやら日本酒をたらふく飲む。「ちょっとションベン」。そう言って席を立った相馬が戻ってこない。まあぶの職員を動員して行方を捜す騒ぎに。一時間弱ほどして十㍍ほど下の沢に顔から血を流す相馬を見つけた。そんな笑い話もある。
その相馬は、すい臓がんを患い〇五年旅立つ。六十三歳だった。
「あと十年長生きして深川を見守っていただけたら……」(河野)。相馬が亡くなる直前まで筆を進めた「農業が輝く」(北海道新聞社)の巻頭に河野はこんな一文を寄せている。「先生のお話は、
「あのころは、太陽の光が燦燦(さんさん)と輝いていた」
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閑話――。
幕間の間奏曲として前深川市長・河野順吉の横顔を素描したい。
失礼ながら、おっちょこちょいでもある。そんなエピソードを一つ。河野の記憶がたしかなれば、それは一期目の後半だとか。現・深川市鷹泊であったメロンまつりに顔を出した河野は、地元に住む小松信行(故人)から「いつまでも元気で活躍してくれ」と、ある物をプレゼントされる。
「頂き物ということで市長室の応接の棚に飾ったんだけどねぇー……」。一週間もしないうちに女性職員が恐るおそる河野に申し出た。「市長、これなんとかしてください」。河野が頂いた物は、透明な筒に入った赤まむしの焼酎づけだった。想像するに、女性職員は棚のほこりをはらったり、ふいたりしなければならない。「あ、こりゃすまんことした」。河野は苦笑いを浮かべ女性職員に平身低頭したそうだ。赤まむしの焼酎づけは男性職員にくれてやったとか……。
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当時、軟派ネタとして全国ニュースになったから、ご記憶の読者も多いかもしれない。
一億円の現金寄付――。
寄付は、河野の父健一郎・母千代の功徳と河野一家からの恩義を片ときも忘れなかった男が鳴らした美しい和音だった。単にひと旗揚げてポン、と一億円じゃない。物語があった。想像するに寄付した翁は、遠い昔の恩義をめぐりめぐって健一郎・千代の息子・河野が奉仕する深川市への寄付というかたちで報いることで自らの物語のエピローグとしたように思える。
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現・深川市音江町の菊丘出身で札幌に住む元会社社長・中村正則(80・当時)は、〇五年八月三十一日、深川市役所を訪れ、深川市長・河野に現金一億円を手渡す。
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中村は幼少のころ、近くの河野の家によく牛乳を買いに行かされた。「正則ちゃんご苦労さん。一杯飲んでいって」。河野の母・千代は中村が来ると、必ず牛乳を入れたコップを差し出した、という。
「あのときの牛乳の味が忘れられん」。中村は、千代の優しい気遣いを終生忘れなかった、と周囲は語っている。河野の父・健一郎も青年学校で中村を熱く導く。
中村は、菊丘でも有名なやんちゃ坊主・喧嘩太郎で知られていた。いろんな心の葛藤を重ねたろうか。家業の農家を手伝った後、中村は十八歳のとき菊丘を離れ旭川で行商する。ためた金で網走管内留辺蕊町(現北見市)でドライブインを経営し、財産を築く。
そうして、会社経営を終えて八十歳になった中村は一億円を深川市に寄付した。
中村は、河野にこう言った。「市長のご両親の生き方は、私のあこがれだった。私は十八歳まで菊丘で生活させていただき、河野さんのご両親の生き方の影響を受けた。そして今の自分がある」
「おやじとおふくろのやってきたことが私を支えてくれている」
<写真> 現金1 億円を河野に手渡す中村正則(菊丘(河野と同郷)出身の実業家)
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河野と市井(しせい)の距離の近さを示すエピソードをひとつ、ふたつ。
こんなにおいしいお米がとれました――。市長・河野を地区の住民が招き、収穫したばかりのコメを使ったおにぎり、豚汁、漬物で振舞う。三期目の河野を新岩山自治会館に招いた大森隆(69)は「河野さんは地域へ気配りされていた。来て喜んでほしい、と思ってね」
深川市民劇団で、市長・河野は悪役で舞台にも立った。市井の懐に飛び込む行動力・図々しさは河野の天与と言っていい。
「市民の生き生きとした笑顔を見たかった。それが私のカンフル剤だったから」
<写真> 市民と談笑する河野(右)=「市民桜まつり」から
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ときにハコ物行政と揶揄(やゆ)する声もある。旧来の自民党が十八番とした利益誘導型政治の延長線上に前深川市長・河野順吉の行政手法を見る人がいるのも事実だ。河野は九六年から六年間で矢継ぎ早に大型の投資事業に着手する。
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具体には ▷健康福祉センター「デ・アイ」(着工・九六年三月)▷アグリ工房まあぶ(同・九六年九月)▷「ぬくもりの里」(同・九八年八月)▷温水プール「ア・エール」(同・九八年十月)▷経済センター(同・二〇〇〇年六月)▷道の駅「ライスランド ふかがわ」(同・〇二年五月)▷文化交流ホール「み・らい」(同・〇二年八月)▷市立病院(同・〇二年十二月)――。
短期における大型投資事業の連発は、何かに急(せ)きたてられるかのようでもあった。
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市民生活に必要不可欠なインフラ整備――。三期目後半、河野をハコ物行政と批判する市議の質問に事務方はそんな答弁を繰り返していた。
以前から懸案となっていたさまざまな諸件が市長に河野が就くや一挙になだれこむ。
例えば、市立病院の改築がある。狭かった。まず駐車場が……。院内に目を向けると廊下に医療機器の一部を置かざるを得ない。入・外来患者から苦情が寄せられる。医師からの要望もあった。建て直してほしい――と。
九六年ごろには、河野が設けた市民とのホットライン「市長への手紙」にも外来患者や入院患者の家族から決断を促す文書が届く。市議の要望も重なった。北空知における中核医療機関としての位置づけを確保する必要も河野の念頭にあった。
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「病院をやりたい(改築したい)。一つご指導を」。九七年暮れ、自治省(現・総務省)を訪ねた深川市長・河野に官僚・瀧野欣彌(北海道出身・後に総務事務次官、鳩山由紀夫内閣で官房副長官)は、「やるなら今すぐ」と諭した。九九年度以降、国の補助率は下る――。瀧野から情報を得た河野は、東京から帰ってすぐに当時助役(現・副市長)だった大西良一に指示する。「十年度中(九八年度中)にマスタープランを提出できるよう準備してほしい」
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場所が問題だった。割れた、二つに。当時、市民会館のあった現在地と開西・メム地区の郊外――。
「私はやはり市立病院はまちなかになければ深川が衰退すると考えた。交通の利便性もいい」。普通車両二百五十台以上収容できるスペースの駐車場の確保を念頭に土地所有者の意向、市有地の状況を調べ協議を重ねた。河野は決断した。大型商業施設の出店と同様に考え、郊外に移設すると中心街の空洞化に拍車がかかる。
果断ともいえた。なぜなら、市立病院を当時あった市民会館の立地場所に改築することは、三つの大型公共施設の移転改築へGOサイン出すことと同じだったからだ。
市民会館は、旧・深川商工会館があった場所へ移転改築し名称を深川市文化交流ホール「み・らい」とし、深川商工会議所が入る商工会館は、JR深川駅前に新しく整備する深川市経済センター一階へ――。
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矢継ぎ早の大型投資事業を暴挙とする意見もあった。当時共産党市議で後に河野と深川市長選を戦った北名照美(74)は往事を振り返る。「人格的には如才ない人だった。平和問題一つにしてもよく我々(共産党)の声に耳を傾けてくれた。ただ、哲学というのかなぁー、それがなかった。ハコ物ばかりで弱者を切り捨てた」
河野市政を見る北名の目は厳しい。
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神輿(みこし)となって担がれていた、と言えば語弊があるだろうか? 市立病院改築といった大型の投資事業を矢継ぎ早に着手する深川市長・河野順吉(当時)にワッショイ! ワッショイ!の掛け声がこだまする。
一方で、潜在する多様な声・意見も露呈した。〇二年の深川市長選は、現職で三期目を目指す河野と中野智行(共産党深川市委員長・当時)が舌戦を繰り広げた。中野はハコ物行政と河野を批判し、四千二百五十一票を得る。河野九千九百四票。ダブルスコアとはいえ商農工の主要団体の厚い支持基盤を擁する河野に対し、共産党の新人が五千に迫る票を得たことは、ハコ物行政に対する批判の内在を物語る。
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元共産党市議・北名照美(74)は、往事を振り返る。「河野さんには、大きなしがらみから抜け出してもらいたかったなぁー」
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河野が市長に就任した九四年十月時点の深川市の借金(地方債残高)は二百十四億六千万円(九三年決算額)だった。それが十二年後の〇六年には……。
それまで二十億円前後だった単年度の借金額は河野が市長に就任した翌九五年度(初の予算執行年)が三十億円台となり、九六年度には四十八億九千万円、翌九七年度には五十四億四千万円……。深川市立病院の改築に伴い〇三年度には八十六億円、翌〇四年度には六十八億円を借金している。
借金残高も次第に増える。河野が就任する直前の借金残高は二百億円ほどだったが、九八年末には三百二十億円に、〇二年末には三百九十五億円、〇三年末には四百五十二億円となる。河野が市長を辞職したときには五百二億円に膨らんでいた。借金が増えると同時に家庭の預貯金にあたる基金も減っていった。「危機感はあったが財政担当者を信じていた。過疎債など有利な財源を確保していたから。市の担当職員にはご苦労をかけた。感謝している」(河野)
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河野だからできた、ともいえる。短期にこれだけの大型の投資事業ができたのは、河野のけた外れの行動力に加え、要所を抑える人脈と言っていい。青年団活動で知遇を得た衆議・首長の先輩・仲間をバックボーンに河野は足しげく省庁に通い詰める。旧自治省(現総務省)の当時の財政局長・嶋津昭の下へ何度も何度も足を運び河野は信頼を得る。秋本敏文ら全国市長会の歴代の事務総長に食い込んだことも大きかった。
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「何度も足を運んでね、通り一遍(いっぺん)のあいさつじゃなく絆を強くしたい、という強い気持で(省庁を)回っていたよ。私の人懐っこさが生きた」
こうして河野は人脈を生かして、補助率のいい有利な財源を確保し、大型の投資事業を次々に着手した。
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ただ、有利な財源と称して多くの地方公共団体が国のバラマキに乗り投資事業を連発した挙句が国と地方を合わせた借金一千兆円となっている感は否めまい。
河野にそれが分からなかったはずはない。
シンプルな思いがあった――。ただただ「市民の喜ぶ顔が見たい」。命を守る立派な医療施設がある、温水プールも、文化の核となる大きなホールも……。「市民が『住んで良かった』。自分が住んでいるマチに、わが深川に誇りを持ってもらいたかった」
自らの行動力で省庁に食い込み、有利な財源を確保する達成感も河野にはあったろう。市民要望をかなえる。目に入れても痛くない、かわいいかわいいわが子のおねだりを次々ときくように。喜ぶわが子が市民だった。多様な意見はあろうが、そこに邪・嘘はなかった。
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「お役目お疲れさまでございます」
〇三年(平成十五年)四月十七日――。深川市長・河野順吉(65・当時)は、東京元赤坂の赤坂御苑に立っていた。
河野は、市政執行のほかに深川の顔としての公務をたくさんこなしたことで知られる。人によっては目立ちがり屋と揶揄(やゆ)する声もあるぐらいに。
赤坂御苑に立つ河野は二カ月ほど前の冬、天皇・皇后両陛下主催の春の園遊会へ招待された。宮内庁から確認を求められた道からだった。
「突然のことで、あんなにうれしいことはなかった。私ごときがお招きを受けるとは……。光栄と感じた」
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その日公務を終え帰宅するや妻・申子に伝えた。「きょう園遊会にお招きを受けた。出席すると返事したよ」。「そう、お招きを受けるなんてねぇー……」。申子は驚き、喜んだ。
その年の春の園遊会には、政財界人ら二千四百人ほどが招待された。
澄みわたるような青空の下、河野は後方二列目に立った。皇太子ご夫妻が近づく。「市長さん、どうぞ前へ」。河野の近くにいた省庁の政務次官クラスの男がいざなう。河野が躊躇(ちゅうちょ)していると皇太子さまがお声をかけた。「お役目お疲れさまでございます」。河野は一瞬緊張したが「お招きいただきありがとうございます。深川市出身の小川東洲先生(書家)の『東洲館ギャラリー』がオープンしました。ぜひ機会をみてご来館ください」。頭を下げた。「小川東洲先生のふるさとの市長さんです」と皇太子さまから伝えられた皇太子妃雅子さまは微笑を浮かべ河野に会釈した。
小和田家と交流が深かった書家・小川東洲は、皇室に入られる前、皇太子妃雅子さまに書の手ほどきをしたことで知られる。
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ほんの一瞬ではあったが、園遊会での皇太子さまとの会話は河野の胸に深く刻まれた。河野における"人生最良の日"であったに違いない。
<写真> 宮内庁長官から送達された天皇・
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園遊会から三年後の〇六年(平成十八年)四月、河野は、ときの首相・小泉純一郎から「桜を見る会」にも招待されている。大勢の招待者にもまれ東京・新宿御苑の満開の桜を仰いだことを忘れない。
園遊会も「桜を見る会」もめぐり合わせが良かった、と河野は述懐する。いいときに深川市長であった、と。
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「めぐりめぐって私は、ほんとにいい時期に深川の市長をさせていただいた」。象徴的出来事ともいえるのが地方六団体の雄「全国市長会」の副会長就任だった。〇五年(平成十七年)、河野六十七歳だった。個人・河野の名誉だけではない。深川市の名を全国に知ってもらう良い機会ともなった。
春には「全国市長会」の決意事項を盛った文書を手に、秋には新年度予算案編成に向けた要望折衝に会長・理事らと各省の大臣と話し合う機会を河野は得る。
「私にしてみればほんとに良い勉強になった。いい経験をさせてもらえたね」(河野)
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若くして青年団活動に身を投じ、それぞれの分野で活躍する先輩・朋輩・後輩が自らを陰に陽に支えくれた。
恵まれていた――と、河野は今も思う。市長時代を振り返り、「天が見ていてくれているのかなぁーと思うぐらい、ほんと恵まれた。感謝しきれないねぇー、ありがたい」。
河野の付き合いはお堅い役人・政治家ばかりじゃなかった。
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わたし今度深川の道の駅に、ぜひ行きたいのよ――。とある民放テレビの取材現場で、そう話しかけられたのが最初だった。
「それはもうぜひ……」。〇六年、市長三期目・河野順吉六十八歳のころだった。料理研究家で道民から今も愛される星澤幸子の知遇を河野は得る。「星澤先生は笑顔の絶えない人でね……。いつもニコニコと気さくで、私はいっぺんにファンになった」。自らのキャラに星澤がどこか似るところも河野は感じていたようだ。
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相性が良かったのだろう。星澤は 深川市の夏を彩る「まあぶフェスタ」(まあぶ公園特設会場)=深川市音江町=に顔を見せる。「地元の屋台(出店ブース)一軒一軒に顔を出し市民一人ひとりに声をかけてくれた。うれしかったねぇー」
とある月刊誌で河野と星澤は対談もしている。「農産物を作ることがどんなに大変で素晴らしいことかを知ることが何よりの食育です」――。星澤が発した言葉は河野を勇気づけた。「やっぱり深川のことをよく理解してくれる人をどうしたって私は好きになる」
河野は自ら取り組む深川経済の屋台骨を担う農を核にしたまちづくり「ライスランド構想」を星澤に一生懸命説いた。河野の胸に「ライスランド構想」を信奉してくれ志半ばで亡くなった拓大道短期大教授・相馬暁が星澤と重なるようでもあったろうか……。
河野と星澤は今も交友を深める。
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宮内庁御用達の陶磁器メーカー有田焼窯元「深川製磁」(佐賀県有田町)との付き合いも古い。これも人の縁(えにし)が結んだ。民放アナウンサーで後に大学教授となる見城美枝子の紹介だった。
見城が来深した際、河野は地元農家が栽培したブドウを原料とした「深川ワイン」をプレゼントした。見城は懇意にする「深川製磁」の会長・深川明に数本を譲る。これを機縁に河野は「深川製磁」と交わる。名が「深川」で一緒だった親しみもあったろう、深川は自ら経営するレストランや観光施設に「深川ワイン」を置いてくれるようになった。
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河野宅には毎年、干支を描いた皿が送られてくる。「深川製磁」と河野の交わりは今も。
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河野の筆まめは、つとに知られる。その筆まめが縁をつくり、はぐくんできた。書家・小川東洲(深川市出身)との出会いもそう。河野は市長在任中、ロンドンの大英博物館を訪れた際、各国の見学者が郷土・深川が生んだ書家の作品を見て感激しているのを見る。様子をしたため東洲に送った。「高貴なイメージがあって最初は難しい人かと思ったが、付き合っていくうちに人の面倒見のいい、やさしい人だとわかった」(河野)
東洲から返信が届く。「私の作品をたくさんあげるから、おつかいください」。これを機縁に開設したのが「アートホール東洲館」だった。今も年に二、三度河野は東洲と会い交わりを深める。「東洲先生とおつきあいさせていただくことは私の誇りとなっている」
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河野という男は、縁(えにし)を宝とする。河野の半生を俯瞰(ふかん)すると、それがくっきりと浮かぶ。縁を宝としたことが生の分水嶺に因果した。それを人は単
に「運」と評するのだが……。殊にメールといったネットツールで一過性のつながりがはびこる現代において河野の処世は稀有と言っていい。
に「運」と評するのだが……。殊にメールといったネットツールで一過性のつながりがはびこる現代において河野の処世は稀有と言っていい。
「私は心のつながりを自分からは絶ちたくない、という強い思いをいつも持っている」
<写真> アートホール東洲館のオープン記念テープカット=小川東洲(右) と河野= 01 年
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スパーンとはね返ってこないと承知しない、それが自らの悪い癖と思いながらも……。
前深川市長・河野順吉は在任中、指示したらすぐに結果を欲した。そのせっかちさが行動力そのものだった、ともいえる。
そんな事例を一つ。
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その思いは市議時代にさかのぼる。「若い人たちが走る姿。いいなぁーとね……」。視察先の網走・士別の両市で見たスポーツ選手が行き交う光景だった。
市長になって初めての予算案に"スポーツ合宿のマチ深川"の創造に向け調査費百万円を盛る。
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せっかち故にこうと決めたら素早い。市内の旅館組合のメンバーに集まってもらう。趣旨を説明した。「道内外の大勢のひとたちが長期にわたって滞在してくれれば深川のマチにお金がおちる。地域経済の活性につながる」――と。
賛同を得た市内の陸連関係者・旅館組合のメンバーと市所管職員をスポーツ合宿誘致に力こぶをいれる網走・士別に調査に行ってもらう。
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当の河野は上京する。若年期に青年団活動を通して整備に一役買い副所長を務めた「北海道青少年スポーツセンター」(深川市音江町・当時)の運営に関連し、河野は日本体育協会(当時)=現・日本スポーツ協会=に多少顔が利いた。エゾハルゼミが命たぎらす初夏、河野は日体協にズカズカ入っていき事務総長に合宿誘致の趣旨を話すと、日本陸連の競技運営委員長・桜井孝次を紹介された。
「あー、それなら瀬古君に相談したらいいよ。紹介するから」。桜井は河野にそう告げた。瀬古利彦は日本マラソン界のエースとして活躍した後、当時ヱスビー食品陸上部の監督をしていた。河野はその足で瀬古に会いに行く。
「来年から深川で合宿してください」。河野は頭を下げた。
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「肉はどのように焼いたらいいんでしょうか」。おずおずと、そう切り出す日の出屋旅館オーナー・廣瀬清の姿に瀬古は打たれた。飾ることのない真しな姿――。瀬古は「大変感激しまして、廣瀬さんには頭が下ります」。合宿を依頼した翌九六年、瀬古はヱスビー食品陸上部のメンバーを引き連れ日の出屋旅館で合宿した。帰る際、市長室を訪れた瀬古は、河野にそんなエピソードを話した。
<写真> 市長室を訪れた瀬古(右)と握手する河野
ヱスビー食品陸上部は、それから六年連続、計九回深川で合宿を重ねる。陸上関係者の信望の厚い瀬古が率いるヱスビー食品が合宿を繰り返すことで合宿地・深川の知名度は上がる。他チームの招致につながった。「スポーツ合宿のマチを創造するために何もないところから旅館組合の関係者、市職員はほんとに良く頑張ってくれた」。旅館関係者、チーム招致に本州の企業回りもした市職員の頑張りに河野は感謝の念を今も抱く。
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招致に乗り出した最初の九五年(平成七年)は三団体が延べ六百六十六泊した。一七年度(平成二十九年度)は六十九団体が延べ五千九百七十二泊を重ね地域振興に一役買う。日の出屋旅館の現オーナー・影山敏之(53)は「合宿事業がここまで続いているのはすごいことですよ。やはり瀬古さんの影響で広がったんだと思う」
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河野は、市職員・旅館関係者の頑張りでスポーツ合宿が深川に根ついたことに無上の喜びを感じる、という。
種まき、世話し、実を結ぶ。合宿のマチを象徴する情景を一つ。
一四年六月、日の出屋旅館を訪れた瀬古が影山に声をかけた。
「おやじ(前オーナー廣瀬)は元気かい」
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深川市長・河野順吉(当時)に会おうと市長室を高年の男が訪ねてきた。
深川市がスポーツ合宿誘致に動いていたころ、少子化に伴い市立入志別小学校が廃校となる。九五年三月末だった。地域コミュニティーの核となるものを創造するため跡地をどうしようか、と検討を重ねているころだった。
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「ゲートボールのコートを十二面造ってほしい」。訪ねてきたのは深川市ゲートボール協会の会長・高橋春雄だった。そのころの深川のゲートボール環境は二、三面のコートを有するゲートボール場が市内各地区に点在するだけ。貧弱だった。全道規模の大会を開くには無理があった。
高齢のみなさんが一堂に集ってハツラツと野外で楽しんでほしい――。会長・高橋の願いを聞き河野はそう思った。地元住民・市教委とも協議を重ね閉校した入志別小学校跡地の一角にコート十二面をようするゲートボール場を整備した。トイレ・あずま屋・駐車場・ベンチも。名称は「さわやか広場ゲートボール場」――。
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深川市ゲートボール協会のメンバーは、このゲートボール場を大切にした。シーズンインする六月の協会設立記念大会、七月の北洋銀行杯と深川市長杯など十月のシーズンオフまでの間七、八回さわやか広場GB場を会場に深川市GB協が主催して大会をやる。深川のみならず、隣りの幌加内町をはじめ北空知の各町のゲートボールチームが集う。北空知における"ゲートボールの聖地"ともなった。
市長杯には毎年河野は足を運び、あいさつし、選手たちを激励した。「始球式もやったよ!」。河野は往事を振り返る。始球式では「市長うまいねー!」とひやかしが飛んだ。
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「河野さんが来てくれてね、あいさつしてくれた。うれしかったよー」。人はなんでもないことをおぼえているものだ。河野が市長を退いてだいぶ経った一四年夏、大会を取材に伺う筆者(記者)に高橋の後を継いで協会の会長となった曽我鶴江、事務局長・草開保行は、市長(河野)が足を運んでくれた喜びを話してくれた。市井(しせい)との近しさ――。河野の躍如たるゆえんだ。
深川市GB協会は、最後まで、さわやか広場GB場を大事に大事にかわいがった。一五年秋、会員らの減少・高齢化で協会は二十九年の歩みを終え、解散する。
〈夏草や/兵つわものどもが/夢の跡〉(松尾芭蕉)。さわやか広場GB場を見るにつけそんな感慨に陥るが、多くの市民に夢を与えたことは紛れようも事実で
あろう。すべてのことはうつろうのだから……。
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河野は、ゴルフに特別な思いがある、という。やらない。何故(なぜ)か? 市議時代某先輩の一言だった。「おい、ゴルフやって遊んでいる暇があったら議会活動頑張れや」。はっぱをかけられた河野はゴルフ道具一式を身内にくれてやる。以来、ぷっつり、とか。
されど、「リバーサイドパークゴルフ場」「石狩緑地パークゴルフ場」など、市民要望を受け市職員・関係者の力を得ながら河野は、市長在任中に四つほどのパークゴルフ場を造った。音江浄化センター整備に伴い現地に「広里ふれあいパーク」を造成しパークゴルフコースも整えた。今もにぎわう。
「今でもパークゴルフを楽しむ市民の元気な姿を見ると造ってよかったなぁーって思うね」(河野)
次いで、河野のヒューマンな横顔を追う。
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返す刀も、とぼけが入って切っ先鋭い。「おー! ここで陳情受けても、みんな忘れんぞ!」
「アグリ工房 まあぶ」(深川市音江町)の湯につかる深川市長・河野順吉(当時)を市民がはやしたてる。河野も軽やかに応じる。河野は市長在任中、てらいもなく「まあぶ」の湯につかり、市井と"ふるチン談義"する鷹揚さがあった。市井から、"かわいがられる"ゆえんである。
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市井に慕われた。小社の同僚記者の話しである。そう、〇五年ごろ。同僚の記者が市内の農業生産者宅に取材で伺った。居間に入り、きょとん、とした。市長・河野の写真が飾ってあった、という。
「これ、市長ですよね」。記者が問うや、「河野さんのこと好きだから」。夫婦はそう臆面もなく答えた、という。
玄関や居間に天皇・皇后両陛下の写真を飾る年配者はいるが、居住自治体の首長の写真を飾る例は筆者(記者)も聞いたことがない。"河野神話"健在なりである。
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人間味・ヒューマンに事欠かない。仕事に厳しく、じっ、としていられずせっかちなほどの行動力にあふれる中に、そんな味わいを醸す男である。
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車好きでもある。故に市長専用車の後部席でもじっ、としていない。「おい、もうちょっとスピード出したほうがいいんじゃないか」。新千歳空港へ向かう車中、河野はそんなことを言って運転手を困らせる。「俺がかわろうか」。そんなことまで言う。市長に運転させることはできない。運転手は適当にあしらいつつハンドルを握る。「だけどね、ちゃーんと運転手さんは正確に時間どおりに私を新千歳空港に送り届けてくれるんだよ。ありがたいね」
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陳情などで上京した随行職員の話しも河野らしい。「ちょっと待っててよ」。ぷい、とその場を離れる河野。戻ってくると手にはアイスクリームやら菓子が……。「さぁさぁ、みんなでいただきましょう」。気取らない。人を構えさせないおおらかさがあった。
そうした、夫の気質を知る妻・申子は河野の着る物に気を遣った。市長としてふさわしいものを――。深川で洋服仕立てをする業者に宅に来てもらう。河野のスーツとシャツ(Yシャツ)を定期にあつらえた。スーツはネイビー無地(紺色無地)が多かった。無頓着だった河野だが、スーツの裾の切れ込みは、中央に入る「センターベント」と両脇に入る「サイドベンツ」を交互に仕立ててもらった、という。
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「お父さん、酢をとりなさい」。妻・申子は河野の健康に気を遣い、酢を積極的に体にとりいれるよう促した。大根おろし・納豆・梅干……。健康に良いとされる料理を欠かさず出した、という。市長時代、河野の一日は、NHKの朝のテレビ体操から始まる。「市長を継続させてもらう中で、年配の支援者から言われる『体に気をつけなさい』の言葉がひしひしと分かってきたね」
朝、体を動かしながら、支えてくれる人を思う。ときに自らの連合後援会の会長を担ってくれる関下正夫の姿を思ったりもした。
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「当時の市長の改選時期はコメ収穫の真っ只中の秋だった。農業を営んでいた関下さんは、私の選挙期間中は、自分の田んぼの稲刈りを決してしなかった。選挙を終えてから稲を刈っていた。忘れられんねー」
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深川は出遅れていた。むしろ遅すぎた感さえある。河野はそれを感じていた。
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馬が合った。互いに似たものを感じ、プライベートにおいても互いの信は揺らがない。それが礎を築き、後進の熱い思いで紡がれ今に……。
高度経済成長真っ只中、国際交流が声高に叫ばれ、国内の市町村が盛んに外国との姉妹都市提携を結ぶ中、深川は長く蚊帳の外にいた。市議時代、河野は北海道青年婦人国際交流協会の理事を担ったほか、六八年には第一回青年ジェットの指導者として米国に視察に行くなどした経験から外国に親しむ機会の大切さを感じていた。
「市議時代に英語教育の重要性から私も何度か外国との姉妹都市提携を提案したが、かなわなかった」。河野は忸怩(じくじ)たる思いを味わう。つかの間だが、自治体名が似ていることから中国・広東省の市と姉妹都市提携を模索する動きも藤田市政時代にあったが立ち消えた苦い経緯もあった。
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ひょんなことから話しは進む。
「アボツフォード市と深川の風景が似てる」。アボツフォード市にあるフレーザーバレー大学と交流を深める拓殖大道短期大の教授・小滝聡(当時)と拓殖大教授・鈴木文明(同)が市長に就いたばかりの河野にそう告げた。
市長就任から二カ月後、拓大道短期大はフレーザーバレー大と姉妹提携を結ぶ。市長・河野(当時)はあわてなかった。大学間で交流を深める中で両市民間の友愛が熟成した後に……。そんな考えが河野にあった。
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国際交流をはぐくむエンジンとなる任意組織の立ち上げを促し、九七年に「深川国際交流協会」が設立される。この間、深川市は当時の助役(現・副市長)・大西良一らが調査を重ねた。市議会の同意を得て九八年九月十四日、アボツフォード市と深川市は姉妹都市提携を結ぶ。
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このとき来深したのが、アボツフォード市長・ジョージ・ファーガソンだった。お坊ちゃまではない、自ら牛を飼い、ブルーベリーの栽培を手がける男であった。そんなファーガソンを河野は好きになる。「温厚な人だった。ご自宅にも招いていただいて現地の湖などの名所も案内していただいた」
深川市の公式HPによると、アボツフォード市は、カナダのブリティッシュ・コロンビア州南西部に位置し人口十三万人。果樹・畜産など農業都市の顔を持つ。
細く長くやろう(交流しよう)――。河野とファーガソンの思いは一致していた。
<写真> アボツフォード市を公式訪問し、 姉妹都市提携を記念した銘板の除幕式で握手を交わす河野とファー ガソン
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今、両市は、縁(えにし)を大切に、相互に公式訪問団を結成し、派遣・受け入れを重ねる。河野も二度、アボツフォードを訪問した。「フレーザー川があり、川向こうに音江連山のような小高い山がある。川の両サイドには肥沃な土地が広がっていた。深川の風景にそっくりだった」。河野は、アボツフォードが深川と似た土地柄なのを感じた。
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〇六年夏、アボツフォード市の公式訪問団十四人が来深する。ファーガソンの顔があった。前回選挙で苦渋を味わったファーガソンが市長に返り咲き再び会えた。河野は、うれしかった。
互いに自治体首長というトップが抱える孤独を痛いほど分かり合えた。河野は、ファーガソンを小樽に連れて行く。二人で人力車に乗ったり、「白い恋人」(石屋製菓)本社(札幌)に案内し、社長・石水勲に引きあわせた。石水は、自社の銘菓「白い恋人」の箱に一行を映した画像を焼付けファーガソンにプレゼントした。
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一七年、河野へファーガソンの訃報が入る。河野は、遺族へ弔意を表した。ファーガソンは、今も河野の心深くにいる。
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思うにほんの少し前である。北海道にこれほどの活力がみなぎっていたのか、と慄然とする。
なんとかしよう――。タイのノットを緩め、シャツ(Yシャツ)の袖まくり、手のひらにツバ"吹きあて"……。そんな活力は次第に失せ、今、目の前に広がる"社会光景"は……。
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石狩川流域圏を構成する道内四十八自治体の首長が一堂にがん首をそろえ丁々発止のやりとりをやる。そんな会合が十五年前に深川であった。
「第七回石狩川サミット」――。〇三年(平成十五年)十一月七日、「プラザホテル板倉」(深川市)には、当時首長だった旭川市長・菅原功一、上富良野町長・尾岸孝雄ら四十八人が顔をそろえた。
数多(あまた)の大小河川が市中心部を貫く石狩川に注ぎ込む旭川市は川のまちとして知られる。故(ゆえ)に橋が多い。当時の旭川市長・坂東徹が流域圏域四十八
市町村全員参加によるサミット開催のアイデアを抱く。呼びかけは第三者機関が良いと判断し、旭川大学の学長・三木毅に相談したのが始まり。九〇年ごろのことだ。
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北海道開発局を交えた実行委が立ち上がる。河川工学を基礎とする狭い治水サミットに陥らないよう意をはらう。それでいて環境科学と反公害という対立図式じゃ会議の発展性を望めない、と考えた。
河川工学と環境科学の基礎学を生かしながら包含するかたちで社会科学と地域学の観点から論を重ねることを眼目に据えた。
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一堂に会し、持ち時間制を決め全首長一人ひとりが自治体代表としてスピーチする。当たり前のような大胆なサミットであった。
その「石狩川サミット・第七回深川サミット」で憲章が採択・制定される。開催地として議長を担った河野は「深川で『石狩川サミット憲章』が採択されたことは、深川の名誉なことであり幸せを感じた。このとき担当した市職員も大変忙しい思いをしたろう。感謝している。三木学長と憲章起草の委員長していただいた浅田英祺さんは、ほんとによく頑張っていただいた」
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もう一つ、二つ思い出に残る仕事を……。
「第五十七回北海道消防大会」――。〇五年六月十日、深川市総合体育館に三千人弱の消防関係者が集った。
前日夜、高橋はるみ道知事が来深した。このとき高橋知事は、河野からのマチづくりの思いに耳傾け、共感を示してくれたことを河野は、ものすごくうれしく感じた、という。さらに、全国市長会事務総長として懇意にした秋本敏文が、日本消防協会の理事長となって深川で再会できたことも河野を感激させた。秋本は現在、日本消防協会の会長の要職にある。
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〇三年(平成十五年)、北海道市長会・定期総会の深川開催も忘れがたい思いが残る、という。
当時、河野は全国市長会の副会長の要職を担っていた。これが機縁し、全国市長会会長・小出保(金沢市長)が来深した。
こうした会合の際は、開催地の主要施設をめぐるのが定番だが、河野は事務方と相談し、ひとひねりする。元NHKアナウンサーで、"語り部(カタリスト)"として活躍する平野啓子の講演を来深した道内の首長に聞いてもらう計画を練る。当日、喝采を浴びた。「深川らしいほかにない全道市長会になった、と思うよ」。
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ときはさかのぼる――。
「すでに鷹泊は了解したのか?」。河野は思わず言葉をのんだ。
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思わず息をのむ、と同時に生来の土性骨がもたげた。
九四年十一月、深川市長に就任して間もなくだった。市教委所管に市立多度志小学校校舎の設計費を新年度予算案に計上しては、と聞かれ市長・河野順吉(当時)は了承する。そのことを、市議会の代表者会議で説明したときだった。
「すでに鷹泊は了解したのか?」。ある会派の代表者(市議)が河野に詰め寄る。息をのむ、と同時に土性骨がもたげた。
「鷹泊に入る!」
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代表者会議を終え、会議室を出た河野は鷹泊の現況を所管に聞く。
「極めてきびしい」
児童数が減り、市立の鷹泊と幌成の両小学校を閉校し、多度志小学校を改築(建て替え)し統合する構想だった。地元に小学校がなくなる。鷹泊で反対の大合唱が渦巻いた。鷹泊は数奇な歴史を刻んできた、と言っていい。乱高下するように大きく波打ち栄枯盛衰を繰り返す土地であった。
ときに大資本・王子製紙の山林を有し、造林・切り出しで栄え、砂金掘りで一世を風びし、雨竜川のイカダ流しの事業でも隆盛した。そして、ダム工事……。栄華に酔い、衰にうつむく――。鷹泊はそんなときを重ねた。
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夜、鷹泊の公民館に河野は足を運んだ。代表者会議から数日後のことである。教委の問題に首長が首を突っ込むは、極めてまれだ。
「市長、酒持って来たか!」
扉を開けるや罵声が飛んだ。一番後ろの席に胸をのけぞらせねじり鉢巻をした小松信行だった。鷹泊で農業を営み域内住民の信望の厚い男だった。
「松澤さん、これだけの人数だから一升瓶十本ぐらい持って来てください」。どっ、と場が沸いた。ぶっ、と、風切る切っ先鋭い小松の刀身を河野はやわらかに受けとめた。一瞬の立ち合いですべてが決まった。後に小松はこのときのことを振り返り河野に言った。
「あんたは腹のすわった男だと思ったよ」。小松は河野に任せていい、と思ったに違いない。
酒を所望された松澤茂は鷹泊で酒屋を営んでいた。以前、別の取材でこのときのことをこう振り返っている。「河野さんが地元に足を運んで一生懸命住民と話し合いをされた。市長さん自ら何度も気を使って地元に足を運んでくれるから地域の役員たちもね……」
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栄枯盛衰を繰り返す中で、今、域内のコミュニティーの核ともいえる小学校まで……。そんな思いが鷹泊住民にはあったろうか。
「鷹泊は、深川の裏玄関だ」
小松は河野に言った。裏玄関が寂しいのはいかん。豊かな自然環境を生かした地域振興策をやってくれ――と。河野は鷹泊の思いをすくうことを約した。「なぁー、みんなこうゆう市長だからもういいぞなー」。小松が言った。
九七年三月三十一日、鷹泊小は校史に幕を下ろす。人が集える場所に――。思いに耳傾け、校舎のあった敷地には今、コミュニティースペース・「リフレッシュプラザ たかどまり」がある。周囲には桜の木が数百本植わる。
<写真> 鷹泊小閉校記念事業の記念写真=域内住民らと、2列目中央に河野
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鷹泊小とともに幌成小も八十八年の校史に幕を閉じた。その校舎の一部は「幌成郷土資料館」となって往時の面影をとどめる。
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以前、別の取材で会ったとき二代目館長・川副順包(80)は、旧・校舎裏に記者を招き山すそを指さした。「ほら、あの辺りにある桜の木、河野さんが持ってきてくれたんだ」。エゾヤマザクラ十本。統合を受け入れた旧・鷹泊小周辺には数百本の桜の木が植えられた。旧幌成小にはなかった。河野の配慮だった。そのエゾヤマザクラは、毎春、人知れず、そっ、と花をつける。
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「ライスランド構想」とともに深川市長・河野順吉(当時)が熱情を傾けたものに「マルチメディア構想」がある。
市長選に打って出るときから公約に掲げてきた。インターネットとコンピューターを駆使した情報技術を行政事務に取り込む構想で、今や当たり前となったペーパーレス化した電子的行政事務をいち早く先取りし先進的にやろう、としたのだ。
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「議員のときから、これからの時代はいろんなことが電子化される、と考えてきた。深川として取り組む必要がある、思った。特に情報の発信を重点にしたいと考えた」。農業分野において激化する産地間競争を勝ち抜くには、国内外に効率的に情報発信する必要を河野は感じていた。
テレビ会議・インターネットを駆使した学校間交流やITを駆使した高齢者・障害者らの緊急通報システムの構築……。可能性は無限ともいえるほどに広がる。
河野が市長に初就任した九四年(平成六年)は、まだワープロが一世を風びしていた時代だった。
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翌九五年四月――。河野は庁内に文字・映像・音声をデータ化して伝達・利用する「マルチメディア」の研究・検討組織を立ち上げる。
その年の十二月には、マルチメディア・IT化深川に生きての現状と将来をテーマに市民や関係団体に理解を深めてもらうフォーラムも市生きがい文化センターで開かれた。さらに、農協や商工会議所など官民が一体となってマルチメディア・IT化を推進しようと「ふかがわマルチメディア推進協議会が設立された。九六年(平成八年)六月のころである。
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〇一年、地道な取り組みが評価され深川市は、総務省の電子自治体推進パイロット事業に選定された。およそ三千二百ある自治体の中で選ばれたのは九つ。電子自治体に選ばれた深川市はインターネットを使う電子行政手続きの実証実験を道内で初めてやる。実施したのは ▷住民票交付申請 ▷印鑑登録証明書交付申請 ▷道路占用許可申請 ▷離乳食教室の申し込み――。「当時は、なかなか市民のみなさんに理解していただけず、市職員は大変だったろう、と思う」
<写真> マルチメディア構想に奔走する河野(右)と、所管庁・
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こうして一人の男の生を俯瞰(ふかん)すると、河野は就任以来、馬車馬のように疾走したかのように見える。四期目中途で退場するが、ほぼ主要な仕事は一、二期目にがっ、と……。あれもこれも、と生き急いでいる感さえある。「ほんとに当時の市の職員は大変だったろうと思う。忙しい思いをさせた。感謝してもしきれんよ」
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マルチメディア構想をさらに推し進めIT化によって雇用創出・地域経済活性に結びつけようと取り組んだのが政府の「地域再生計画」だった。
〇四年、深川市は、その初回に選定される。河野三期目の折り返し点であった。このころ、共産党市議の北名照美・松澤一昭は、河野の行政手法をハコ物行政と断じていた。
「市民と共に考え、共に語り、共に行動しよう」――。
河野は自ら掲げる行政運営指針に苦しんでいたかもしれない。
欲望はリピートする――。際限はない。……。さまざまな要望を聞きつつ、すべての民を満足させることはできない。河野は、つらかったろう。そうした際限ない求めに応じるうちに澱(おり)のようなものが積もる。澱は引っぱられる足となる。河野の求心力を減衰させた。
そして、「地域再生計画」が河野の政治生命の分水嶺となった。
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その日、ピリ、と張り詰めながらも高揚する気配が漂っていた。
二〇〇六年三月二十三日、深川市議会議場――。
「地域再生計画に基づくマルチメディアセンター拡張と産業プラザ(仮称)の整備は、市民、議会への合意形成はなく、不確定要素を多く含むことが明らかになった。市民、議会の意向を十分に受け止め、計画を全面的に見直し、市民説明を行うことを強く求める」
激烈調の決議だった。理事者・深川市長河野順吉(当時)が提案した「地域再生計画」を石上統一(新政ク・当時)ら十議員が突っ返した。
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潮目が変わる。河野の政治家人生の分水嶺でもあった。分水嶺は河野の人生だけじゃない。社会にも……。その象徴が、とき同じ〇六年にあった。夕張市が総務省に財政再建団体の申請を発表する。地方自治体のサイフに市井(しせい)が厳しい視線を注ぐ端緒となった。
だが、その兆しはもっと以前にさかのぼる、と見ていいだろう。
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夕張市が財政再建団体を申請する四年ほど前の〇二年ごろ、小泉純一郎首相(当時)が始めた国と地方の税財政を見直す三位一体改革によって国からの仕送り金ともいえる地方交付税が減らされていく。地方自治体はおののく。とき同じくして自治体の合併論が盛んになる。分権を御旗にした三位一体改革にふさわしい権限移譲には自治体の受け皿整備が必要――。そんなトーンで平成の大合併が動き出す。国から見れば自活できない全国にちらばる三千二百いるドラ息子への仕送りを、近い者同士でかまどを一つにしてほしかった。仕送り(交付税交付)先のかまどの統廃合でもあったろうか……。
首相の諮問機関・地方制度調査会の討議資料となった西尾私案(副会長・西尾勝国際基督教大学教授)は、分権の受け皿としての基礎的自治体を人口一万人以上と定義した。ある意味脅しでもあった。脅しがきく。自治体は畏怖した。〇二年当時、三千二百ほどあった自治体は、四年後に一千八百ほどに減る。懐具合の悪い(借金残高増)国は仕送り(交付税交付)先が減ってホッ、としたろう。
〇二年以降のこうした一連の動きは国や地方自治体の台所事情に対する市井の関心を無意識に高め、厳しい視線を注ぐ端緒となった。そうした延長線上に〇六年ごろから盛んになる財政健全化法施行に向けた動きがある。
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夕張市が財政再建団体を申請した同じ年の第一回深川市議会定例会は、そうした時代背景の渦中にあった。「どうして? 腹立たしい思いもあった」。河野は地域再生計画の議会の理解が深まらないのを歯ぎしりする思いでいた。
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個々の人間関係の微妙なからみあいもあったやに聞くが、言及はこの企画になじまない。ただ、三位一体改革・合併促進・財政健全化法施行――。そうした一連の潮流の中で、時代と市井の空気を敏に感じとった市議会が潮目が変わった、と河野へ手の平を返した、ともいえる。
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地域再生計画は、そんなに悪かったのか? 国の認可事業で、当初計画は市民交流センター(旧・拓銀)を改修した上で「産業プラザ」と改称し、地域ポータル・オンラインモールを構築し、喫茶、イベントホール、レンタルルーム、インフォメーションコーナーを整備するというものだった。ITを切り口に中心街空洞化対策をメーンに据え雇用創出も視野に置いた。されど議会の同意は得られない。手の平を返したのは、議会だけじゃなかった、時流のうねりも河野を容赦しなかった。
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あたかも衰運に入ったかのようであった。
〇六年――。深川市長・河野順吉六十八歳。この年、政治家・実人生の分水嶺を迎える。
新年度(〇六年度)予算案に盛った市民交流センター(旧・拓銀)を改修した上でITを切り口に中心街空洞化対策をメーンに据え雇用創出を視野に置いた国の認可事業・地域再生計画を深川市議会予算審査特別委員会は計画の具体性・費用対効果が不明瞭――を理由に全会一致で予算組替え動議を可決し、河野に突っ返す。〇六年度予算は地域再生計画の関連事業を除く異例の措置をとり、ようやく可決をみる。
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「議会のご理解・同意を得られず涙をのむ思いだった。必ず分かってもらえると信じて次(再度の提案)を考えた」。されど、水面下で再提案の機会を探るがうまくいかない。
六月の市議会定例会で河野は一般質問にこう答える。「全面的な見直しを求める議会の意志として極めて重く受け止める」としながらも整備内容を見直し、計画を推進する考えをあらためて示す。されど六月に再提案はできなかった。
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「行政は市長の選挙のために動いているのではない」。六月の市議会定例会で市議から、厳しい叱責も飛び交った。車の両輪に例えられる関係を維持してきた河野と議会だが、市議は手のひらをかえしたように豹変する。"深川交響楽団"から美しい音色を引き出そうと精いっぱいタクト(指揮棒)を振る河野はブーイングの嵐に遭う。個々の人間関係の力学を除けば、時代の潮流を上げ潮に市議の強い叱責・離反があった、とみることもできる。
〇二年ごろ始まる国と地方の税財政を見直す三位一体改革→合併促進・財政健全化法施行の動き――。国と地方自治体のサイフの中身と使い道に市井(しせい)は厳しい視線を注ぐようになる。〇六年はその真っ只中にあった。その潮流は、いわば自民党が旧来十八番(おはこ)とした内需拡大を御旗にした公共事業を大盤振る舞いする利益誘導型政治の否定でもあったろう。潮流は新しい有権者像も創造する。うねる潮流のその延長線上の彼方に、"コンクリートから人へ"――をスローガンに政権交代を果たす民主党と結党以来の大敗を喫する自民党の姿(〇九年)がある。潮流は〇二年ごろ萌芽し、〇六年は只中にあった。旧来の保守系政治の手法を踏襲する河野は地域再生計画の負を抱え四期目の扉を開けようとしていた。
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河野順吉 八一七四
北名照美 五八四〇
北名照美 五八四〇
〇六年十月一日執行の深川市長選の得票数。河野は前回四年前から一七三〇票落とす。河野をハコ物行政と断じた共産党役員を務める北名が大健闘し、"河野神話"の、ほころびが露呈する。
「流れは相手(北名)にある」。河野は告示期間中そう感じていた。「今思えば、三月の時点で地域再生計画は、きっぱり取り下げるべきだった」。できずに引きずった。
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♪ ♪「市民の声を聞いたことはあるのか。商工会議所だけの意見でいいのか。市民は会議所だけじゃない」。〇六年十月十六日、深川市議会総務文教常任委の所管事務調査――。内輪の狭い合意形成にとどまる行政手法に委員から厳しい声が飛ぶ。それでも選挙に勝ったことで、河野は地域再生計画の関連事業を盛った一般会計補正予算案を十月二十四日招集の市議会定例会に上程する。意地もあった。されどまたも紛糾する。会期を延長し水面下の調整を図るがうまくいかない。議会最終の十一月二日――。「今回の提案に際しまして大変ご迷惑をおかけいたしましたことを心からおわびしたい。諸般の事情により撤回させていただく」。河野は再び屈辱を味わう。
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ほぼひと月後――。官製談合が発覚する。「深川に住むみなさんの幸せのために、地域の雇用を守るためにした。深川が末永く持続するために……。ご批判も理解している。深くおわびする」。深川の名誉を傷つけた慙愧(ざんき)と大上段に振りかざすプリンシプル(原理・原則)だけじゃ覆えないにがい思いを今も胸にしまう。
〇六年十二月六日――。
河野はタクト(指揮棒)を譜面台にそっ、と置き、舞台そでに姿を消す。
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