『河野順吉伝』のこと:文芸評論家 志村 有弘

『河野順吉伝』のこと  文芸評論家 志村 有弘『河野順吉伝』のこと  文芸評論家 志村 有弘


『河野順吉伝』のこと  文芸評論家 志村 有弘



『河野順吉伝』のこと

文芸評論家 志村 有弘

 河野順吉氏と初めてお会いしたとき、私は、なんと心優しく、明朗闊達な人だ、という印象を受けた。

 本書は、「深川に生きて 河野順吉伝」と題して、「北空知新聞」平成二十九年(二〇一七)七月二十六日から三十年十二月五日まで五十回にわたって連載された。筆者は間山重敏氏(北空知新聞記者)。順吉氏は健一郎氏(音江村村議・深川市議)・千代さん(農協婦人部長・民生委員)という両親の愛に育まれ、やがて〈市を動かす人・河野順吉〉へと成長して行く。

 「北空知新聞」に音楽の楽章を根底として、連載されていった〈河野順吉伝〉には、毎回、副題のような形で「感謝」の文字が記されていた。私はこれまで氏から何度も親しく書簡を受け取ったのだが、そこには、いつも「感謝」という言葉が使われていた。氏は、自分とは主義主張が異なる人については「ご指導をいただいた」といい、決して、その人を批判することをしない。この評伝を読むと、多くの人が氏の人柄に好感を抱いていたことを知る。市議から市長へ。とはいえ、それは決して平坦な道程ではなく、山あり谷ありの人生であったことだろう。間山氏はそうしたことを全て承知の上で、美しい旋律にのせて筆を進ませていった。

 本書を読んで看過できないのは、昭和三十七年(一九六一)から共に歩んできた妻の申子(のぶこ。旧姓奥山)さんの存在である。申子さんは市長に出馬するときもそうであったが、いつも夫の背中をそっと静かに押してきたように感じる。

 河野氏は、不思議な人である。私との交流も随分と長くなったが、いつも穏やかで丁寧で、人懐こい笑顔を絶やさない。私は冒頭部分で、無造作に〈市を動かす人〉という表現をしたが、市長の任にあることは、並大抵の苦労ではなかったことだろう。人に接するに笑顔を絶やさず、しかし、〈忍〉の姿勢で身を持ち続けなければならない。

 深川に住み続けることができなかった私は、氏の言動全てを把握しているわけではないが、氏が新聞や会報等に書いているものを目にすることがあり、市長時代のことばとして「市民とともに創る住みよいまち深川」と書いた文章を読んだ記憶がある。

 本書には、氏の青年団活動のことも示されている。氏は、昭和三十二年に深川の菊丘青年団に入団し、「青年団活動が我が人生を育てて頂いた」(「北海青年」104号、平成二十七年新年号)と述べている。そして今、北道道青年団OB会会長の任にあることで、機関誌「北海青年」に、北海道に対する真情を語り続けている。第102号(平成二十六年新年号)には「環境にやさしくお互いが心から信じ合えるコミュニティづくりを重視」と述べ、第110号(平成三十年新年号)では「北海道らしい生涯学習社会の実現のため」という言葉を記している。いずれも北海道の将来、あるべき姿を真剣に考えた提言である。

 「北空知新聞」連載「河野順吉伝」の表題に記されていた「感謝」という言葉は、氏がこれまで関わってきた全ての人に対する思いを端的に表現したものである。私は、河野順吉という人は、優れた文化人であると同時に、鋭い理念を有する教育者である、と思っている。本書は、北海道の深川という地に生まれ育って、地域の人たちの倖せと発展を希ねがい続けた、ひとりの男の生きざまを綴った、見事な評伝である。

(相模女子大学名誉教授)
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