幅広い活動は地域の宝
北空知青年団OB会会長 田中 盛亮
昭和三十六年、私は北竜町青年団体連絡協議会委員長の任を受け、北空知青年団体協議会(北青協)の初会議に出席致しました。当時の北青協は、十二ヶ町村(江部乙を含む、深川市合併前)で構成されていました。私は、前年まで町青協の役員でもなく、北青協の役員の方は殆ど面識のない人ばかりでした。自己紹介があり、その時初めて各町村の団長さん、委員長さんを知ることが出来ました。その中で、「私は音江のカワノジュンキチでございます」と紹介が有り、コウノでないんだと確認致しました。
その後、会議の中でも河野さんの言葉使いや態度に接し、田舎者の私には劣等感と感激を覚えたことは今でも脳裏から離れません。私の妻も音江出身で、夫婦共々友達的な付き合いをさせていただき、議会活動も含め今日まで約六十年、変わらぬご指導を賜りました。
昭和四十一年、河野さんは北青協の会長を経て、道青協の副会長に立候補致しました。当時は青年団活動も活発な時代で、役員選挙も激戦で、毎回二分する戦いが繰り広げられましたが、副会長候補の河野さんは両陣営から支持され、満票に近い成績で当選されました。それ程全方位に信頼があったと云うことです。
その後、道青協会長、日青協副会長、日青館理事等を務め、その人柄は誰からも信頼され、広く人脈を築いたことでした。父、健一郎さんも人格者で、数多くの公職を持ち、家族あげて公に尽くされた一家でした。
村議六期、市議一期務められた健一郎さんも病に倒れ、五十九歳の若さでこの世を去りました。地域の星をなくした菊丘では、その後任に息子の順吉さんを推し、見事当選させました。若き二十九歳の春でした。
副議長を含め市議七期務めた河野さんは、五十六歳の若さで市長選に挑み見事当選したのでした。河野さんは市長四期途中退任するまで一生を公にささげた人でした。
この度「深川に生きて 河野順吉伝」発刊の知らせをいただきました。私は、五〇回の連載を全て切り取り、時あるごとに目を通しております。私は河野さんのことは全て承知しているつもりでしたが、十分の一も知っていなかったことを恥ずかしく思っております。大きな仕事をする方は必ずそのことを支える奥さんの姿があります。河野さんの奥さん、申子さんもそうでした。私からも有難うと申し上げます。
取り組まれた事業の発想と実現、幅広い人脈は深川の宝です。いや北海道の宝です。これからも変わらぬご指導をお願い申し上げると共に、河野さんの益々のご健勝とご多幸を祈念し、お祝いのことばと致します。
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