第2楽章:市議・人生修練の場を郷土深川に
第2楽章
市議・人生修練の場を郷土深川に
第二楽章は、河野の市議時代を振り返る。個人的な趣味・くせ―― といったやわらかな装飾音を交えながら、「順(じゅん)ちゃん」 と慕われた市議・河野の足跡を追う。
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「♪町が~できる 美しい町が♪」――。札幌冬季五輪のテーマソング「 虹と雪のバラード」が象徴するように、 うちからわきあがるような希望が満ちる良き時代でもあった。 そうした空気に包まれ市議を担えたことに河野は自らの幸運を感じ る、という。河野は、九四年九月まで市議( 市長選出馬のため七期目中途辞職)を担う。
先輩議員だけじゃない。市議をやり青年団活動も続けていた。 八面六臂――。そうした河野を周囲も支えた。
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市議時代のささやかな思い出に更進橋のバス待合所を挙げた。 強風で吹き飛んだ更進橋のバス停留所の待合小屋を造ってほしい― ―。住民の要望をすくいあげ、 市と相談して設置された待合小屋は今も残る。「 設置されたときの住民の笑顔が忘れられない」(河野)
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「♪ぼろは着てても こころは錦♪」「♪なにがなくても根性だけは♪」( いっぽんどっこの唄)
「♪しあわせは歩いてこない だから歩いてゆくんだよ 一日一歩♪」(三百六十五歩のマーチ)
市議・首長時代、つらいとき、 にがい思いをかみ締めたとき歌詞を口ずさみ河野は乗り越えてきた 。今も人知れず、そっと胸の内で口ずさむ。
「山稼ぎで体を冷やしたためだと思う」(河野)。父・健一郎は、 農業をやり、村議六期・市議一期を務めた。冬は造材に従事し、 馬頭(材運搬の長)をやる強健剛毅な男だった。 一進一退の容体が続く。そうした中、 河野の母校でもあった北海道立深川農業高校の生徒が、父・ 健一郎のために輸血してくれた。五人ほど、一週間ほど続いた。「 今もってあのときのことを思い出す。『ありがたい』 の一言に尽きるね」
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「おやじは、頑健で、 まさか五十九歳で亡くなるとは夢にも思ってなかった。 元気になってみなさんのために働くと信じていたから。 おやじは悔しかったろうね」
弔いを終えた河野の両肩に大黒柱の重責がのしかかる。 父を失った河野の眼前には稲刈り半ばの水田が広がっていた。 すでに周りは稲刈りを終えていた。弔いで、 河野の水田だけが黄金の稲穂を垂らす。 農業機械が広く普及する前である。河野が鎌で稲を刈っていると、 菊丘の住民が何も言わず手伝う。 それぞれが鎌を手に河野の水田に入る。稲穂を刈り、 はさがけする。「いやー、もう感謝感謝だった」。河野は、 その光景を今もまぶたにやきつける。
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「あんたがいい、という話しがある。出てみる気はないか」。 明年六月の深川市議会議員選挙に出馬しろ――と。
河野は、答えを留保する。母・千代と妻・申子(のぶこ) の気持をおもんばかる配慮だった。議員・ 町内会役員など複数の公職を持ち家を空けがちな亡き父にかわり母 ・千代が家を守る姿を河野はまざまざと見てきた。さらに、 三歳の長男・和浩と一歳の二男・英俊を妻・申子は抱える。「 半分は出たい気持もあったが言い出せなかった。 家族のことを思えばよしたほうがいい、と……」
だが、後藤は諦めない。市農業委員(当時) をしていた山下寛と影近利通、地域の親分肌で知られ、 音江農協理事(当時) をしていた八木宗一郎を連れ夜な夜な何度も何度も河野を口説きに 来る。
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十二月の半ばだったろうか――。その夜も後藤・山下・影近・ 八木と正対していた。沈黙の間をサッ、 とわが身に引き取るように申子が初めて口を開く。
「お父さん、 みなさんからこんなにも温かい言葉をいただいたんだから、 みなさんのために頑張ってみたら」
政治家への道――。申子は、河野の背をそっ、と押した。
目の前には親しい顔、顔、顔があった。清冽(せいれつ) な縞文様(しまもんよう) を描く水田がマイクを握る男と人だかりを囲む。 頭上には青い空が寝そべっていた。
一九六七年(昭和四十二年)六月九日――。 第二回深川市議会議員選挙の告示の朝だった。 自宅兼選対事務所の前で河野順吉は第一声のマイクを握った。
父・健一郎の死去からおよそ八カ月――。 一声を放つ河野の胸を感慨が満たす。
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「私の記憶では、そのころの菊丘は七十戸ほど。 基礎票はおよそ二百。おやじは百票ほど上積みしたことになる。 自分はさらに二百の上積みを目標にした」(河野)
年が明け一月下旬――。 河野順吉後援会の発会式が地元菊丘の青年研修所であった。 親しい顔が並ぶ。このとき、一人の男が駆けつける。 音江農協組合長・北海道バター社長・ ホクレン専務といった要職を担った音江が生んだ快男児・ 三井武光だった。
「河野君は北海道青年団のトップだぞ。 みんなの力で必ず当選させてほしい。みなさんのために働く男だ」 。三井は、 さらに何度も何度も菊丘が一つになれば必ず当選できる―― と結束を促す。
「報徳」 の教えをいただき師とも仰ぐ三井の激励に心震える思いだった、 と河野は振り返る。
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感謝の気持とともに強く思った。「 おやじができなかったことを必ず果たしたい」と。 河野にはおやじの気持がいたいほど分かっていた。この地・ 菊丘で生きる者のつらさを、大変さをきちんと行政に伝えねば―― 。隆盛きわめた除虫菊栽培はしぼみ、主要農産物をジャガイモ・ 豆類に移した菊丘の民は、 山間地特有の厳しい作業環境にあえでいた。 機械化に取り組みたくとも農道もない。「 行政に今の菊丘の状況を伝え、少しでも菊丘の農民を楽させたい」 。河野は強く心に刻んだ。
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「みんな来てくれた」――。親しい顔が並ぶ。 エゾハルゼミの鳴き声が周囲を包む。 マイクを握る河野の目に長男・和浩(3)の手をとる母・ 千代の背で二男・英俊(1)が左右に揺れているのが見えた。
マイクを握り一声を放つ河野を人だかりの中からじっ、 と見守る女がいた。
終戦間もない食糧難のとき、 乳飲み子を抱え河野家を訪ねた女だった。
「重湯にして子どもに飲ませたい。白米を五合分けてください」
「持っていきなさい」。河野の母・千代は、 なんのためらいもなく白米を差し出した。河野が、 いがぐり頭の小学生のころだ。白米を求めた女の苗字は、「前」、 名は「たけ」――。樺太(サハリン)から引き揚げ、当時、 河野家の隣りに住んでいた。
「『順ちゃんが立ったぞ。助けにいけ』って、父さん(夫) が言ってくれた」。 いがぐり頭のいたずら坊主が議員の先生になる――。今、 九十四歳になるたけはうれしかった、と往時を述懐する。
「あんなお父さん(河野の父・健一郎)お母さん(河野の母・ 千代)のまねはできん。 お餅にあんこ入れて疎開した人一軒一軒に配ってくれた。 忘れんよー」。父・健一郎、母・千代の繭(まゆ) の中にくるまれていた。 その感謝の思いを河野は今もたびたび口にする。
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「きょうはお前が来ると思っとった」。 そう言って赤飯のおにぎりを差し出す。栄養ドリンク・だんご・ バナナ……。差し入れに河野は心熱くした。ときに、 農作業の手を休め、畦(あぜ)を走って来る人もいた。 一已農高の同窓生が動いてくれていた。 青年団の仲間も応援してくれる。当時、 河野は北海道青年団協議会の会長を担っていた。 その道青協の副会長・高松孝行は、 岩見沢からオートバイに乗って応援に駆けつけ、 河野とともに二トントラックの遊説車に立ち「 河野順吉をお願いします」と声を張り上げた。
<写真> 河野(左)と市議選初出馬の往時を振り返る前たけ
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六七年六月十六日、第二回深川市議会議員選挙(定数・三〇) の投開票日――。河野は、十四番目で当選を果たす。「五五七票。 そりゃー忘れませんよー。五五七」。初めての選挙。最後まで不安だった、と河野は述懐する。
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「いがぐりのいたずら坊主だった順ちゃんが、たいしたもんだ」。 たけも河野の初当選をわがごとのように喜んだ。
「私は順ちゃんのファンだから」。ヒャッヒャッヒャッ……。 臆面もなくたけは言う。
市井(しせい)の民に、 そう言わせるところに河野という男の真価が潜む。 巨大組織の支持基盤なんざ利害が一致しなければ離れるものだ。 ほんとに強いのは草の根。今も、 たけのような思いを抱く市井の民と数多く出くわす。
あまたの市井の民の心の琴線をそっ、と鳴らし余韻を今も残す。 河野という男のそうした真価は、そのまま市議七期・ 市長へいざなうことになる。 そうした民の余韻が記者の筆を運ばせている。
「 日本体育協会が全国に宿泊を伴った青少年スポーツセンターを計画 している。深川は青年の家もある。行政(市)は(誘致) 運動したらどうか」
犬も歩けば棒に当たる――と、いう。だが、 歩かなければ棒にさえ当たらない。ブン屋も抜き・ スクープの多い記者はいつも決まっている。 担当分野が変わっても、特報を放つ。 スクープのないブン屋は担当分野が変わろうと一貫して放てない、 小さなスクープさえも……。スクープの多いブン屋に共通するは、 とにかく歩く、現場へ行く、旺盛な行動力だ。 座すだけでは災難にも遭わないが、幸運もめぐってこない。
話しを戻す――。 河野に自らの若年期を語ってもらい驚くのは労を惜しまない行動力 である。分かりやすく言えばケツが軽い。 今も八十になろうとするにアイボリーホワイトのセダンを操りあち こち出かけて行く。老体(失礼)でこうだ。三十前後の行動力は、 さもありなんであったろう。
故(ゆえ)に体育課長・ 真鍋登のアドバイスも単なる幸運とは思えない。 一生懸命に歩く犬が棒に当たったのだ。
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深川に人が集まる、地域振興につながる――。河野は思った。
日本体育協会の資料によると、 基礎体力のぜい弱さを浮き彫りにした六四年東京五輪の成績を踏ま え、 日体協は国民の体力づくりを図る一環として青少年スポーツセンタ ー設立を構想していた。河野からの誘致運動の要請を受け、 深川市長・真鍋は動く。「すぐに体育課長のところへ行こう!」
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「あのときは二人の真鍋さんによく動いていただいた。 体育課長は、真鍋市長と私をご指導してくれた」(河野)。 深川の中でも桜山・稲見山も市内の候補地として挙がったが、 三瓶山周辺(音江町音江)に落ち着く。 用地取得の容易さや丘陵の景観の良さ、近くに青年の家がある―― 。こうした好条件をまとめたプランを真鍋は、 市職員の中でもアイデアマンとして知られる村田秀二に練らせた。
河野はオープンから二年ほどした後、センターの副所長を担う。入所・退所する子どもたちに向けあいさつに立つ。「心に残る言葉を一つでもと考えてね、私自身いい勉強になった」(河野)。スポーツセンターは、今、クラーク記念国際高等学校を運営する創志学園(本部・神戸)が管理する。
今欄、ゆるく――。
「へぇー、そんな一面もあったの?」という塩梅(あんばい)に、幕間の間奏曲のように河野順吉の横顔を素描(デッサン)したい。
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「私はね短気なんだ。短腹(たんぱら)が悪い癖でね」。河野は、自らをそう評する。「○○は、どうですか」「ああ、いいんじゃないか」――。一方で気が短いのは、決断力の早さと表裏でもある、と河野は言う。
逸話がある――。深川市立病院の改築が課題としてあった九七年(平成九年)。「平成十年までにマスタープランを出さねば国の補助率は下る」
東京から帰った河野はすぐに当時助役(現・副市長)だった大西良一に指示する。「十年度中にマスタープランを提出できるよう準備してほしい」。市立病院の立地場所・改築規模には多様な意見もある。ただ、このときの決断がなければ、財源確保が難しく、非常に限られた選択肢しか残らなかった可能性は否定できない。
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温まるエピソードを一つ。市議時代、ポメラニアンの幸太(オス)を家の中で飼っていた。幸太は、河野が帰ってくるまで内玄関で待つ。上京した折は、妻・申子が受話器を幸太の耳にあて河野の声を聞かせるのが習慣だった。幸太は河野の声を聞くと、納得したようにトントンと階段を上って寝室に行った、という。
河野は、岡本のファンである。「明るさ、希望を持たせてくれる」。岡本その人、その作品が放射するポジティブな面を河野はたまらなく好いた。「私も明るく希望の持てる市政運営をしたいと思った」。東京都港区南青山の「岡本太郎記念館」に足しげく通ううち、岡本のパートナー・敏子の知遇を得る。敏子は、河野の誘いを受け深川の冬の祭典「ふかがわ氷雪まつり」の会場に来た。敏子は氷雪まつりを存分に楽しみ夜の酒席もはじける。酒豪で知られた敏子に河野はたじたじに。「あとは頼む」。河野は手刀を切り、当時の女性秘書にその後を任せ逃げた。
<写真> 岡本太郎記念館で作品に興じる河野(市長時代)
和裁と着付けを核に日本古来の民族衣装を伝承する学校を設置してほしい――。「大惣」の小西喜義会長の要望を受け、「北海道大惣和裁高等専修学校」は、七三年に開校する。今の深川市広里町五あたりであった。河野は学校長を、副校長に妻・申子が就く。
「和裁」「編物」「着付」「華道」――の四科。和服が好きだった申子は勉強を重ね生徒に着付けを教えた。多いとき八十生徒が通った。専修学校は北空知に和装文化を伝え続け、九三年、二十年の校史に幕を下ろす。
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河野とバレーボールの縁は深い。つまらない話しだが、河野が水玉のタイを好む傾向を感じている女性がいたなら観察眼鋭し、パチパチパチである。河野はボールに見立て水玉タイを好んだ。七六年「深川バレーボール協会」の会長に就いた河野は市長就任まで担う。
「深川の市技であり、多くの人たちが全国から訪れる。地域振興に寄与できると信じ国体を深川に誘致したかった」。旭川・江別・岩見沢も手を挙げていた。
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青少年スポーツセンターを会場に幾たびも大会・研修会がある。競技会場の決定に深くかかわる「北海道バレーボール協会」の会長・中田公治ら役員は必然深川に足を運ぶ機会が増えていた。ときに、深川のバレーボール関係者が地元で捕った獣類でタヌキ汁やシカ汁でもてなす。そんな、あったか交流で互いの信頼関係は厚く深くなる。めぐりめぐるそうした積み重ねが、生きた、といえる。八一年、「はなます国体・バレーボール競技」(成年の部、6・9人制)の会場に深川が正式に決まった。青少年スポーツセンター設置が、大きな"布石"となった。
当時全国スポーツ少年団会長で、労働大臣・防衛庁長官を歴任した衆議の栗原祐幸に連絡を取りお膳立てしてもらった。栗原、道知事・堂垣内尚弘、深川市長・藤田守也らが見守る中、河野がイチイの木を選んだ理由を説明し、常陸宮殿下・妃殿下は植樹された。そのイチイは今もある。
<写真> 植樹に臨まれる常陸宮殿下(中)・妃殿下(右)、説明する河野( 左)
市技・バレーボールを大切にする心は今も脈々と紡がれている。
こんな調べを奏でる。〈河野さん、お元気でしょうか? 私の事おぼえていますか?(中略)私と友達と二人で写してる写真を河野さんにあげます。この場所は沖西中の校長室です。校長室のそうじだったので、こっそりと写しました。(中略)河野さんないしょですよ〉
八八年、沖縄国体を視察に行った河野は、偶然通りかかった現地の高校前で見知らぬ女子中学生に記念撮影を請われ、パチリと応じた。それを機縁に河野はその年のクリスマスにその女子中学生にミニ雪だるまを送る。
手紙はその礼状だった。
「なるほどね」――。河野を知る御仁ならうなずくであろう。河野は、そうゆう男である。
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「弟が北海道で音信不通となっている。探してもらえないか」
講演を終えた河野の滞在場所に知念村(現・南城市)の婦人会長・吉田苗子が突然訪ねてきた。
河野は、すぐ動く。道の林務所管に連絡し、それらしき人の所在を調べてもらう。道の林務を所管する職員の配慮もあって道内の営林署(国有林関係)も調べてもらった。吉田婦人会長の弟は大沼の営林署で無事働いていることが分かる。以来、吉田苗子が三年前に亡くなるまで河野は温かな交友をはぐくんだ。
その場、その場の必要・利用に応じ筆者を含め多くが他者とコンタクトをとる。河野にはそれがない。本能ともいえるとっさの行動力がそのまま種をまく所作と化す。"人脈家"とはそうゆうものらしい。
複数の公職を持ち、人のために行動する両親を真近に見て育った影響もあろう。
「人との出会いを大切にする。コミュニティーづくりは私の基本中の基本であり、モットー」。青年団活動に身を投じたことも大きい。さらに、北海道バター社長・ホクレン専務といった要職を歴任した音江が生んだ快男児・三井武光から報徳の教えを得たことも見逃せない。
三井から紹介された「北海道報徳社」の専務理事・戸原藤七から河野は、報徳の精神を核にした郷土づくり・人づくりを学んでいった。
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報徳を胸に河野は市議活動では、道道の菊丘入り口から音江十字路間の農免道路の整備促進と、農地の区画整理を中心とした山間地振興の重要性を説く。「真鍋政之市長(当時)さんら行政のみなさんの理解を得てスピーディーに実施していただいた。ほんとにありがたかった」
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投げかけられた一言は、河野の生涯を定めるものだった。
顔を振り向けた瞬間、パン、と目の前で拍手を打たれたあんばいだった。
河野はその瞬間、表情を失う。
九三年(平成五年)十一月――。その夜、会派の佐々木実、八木茂章、安岡宏とともに河野は愛媛県松山市にいた。視察の最後の夜、松山市議会が懇親の酒席を設けてくれた。晴ればれとする気持のいい宴がすすむ。
数時間後、しめのあいさつに立った佐々木は、酒席をととのえてくれたことへの礼を述べた後、こう切り出す。
「明年九月(告示)の市長選は、河野でいきたい」。場が静まりかえった。八木・安岡は言葉を失い顔を見合わせる。目の前で拍手を打たれたように河野は表情を失った。
「頑張ってください」。しじまを突き破るように向かい席の松山市議たちから激励が飛んでくる。最後は、河野の必勝を期した三本締めで宴はおひらきとなった。
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宴を終えて宿泊先に戻った佐々木は、八木・安岡に「我々がもととなって頑張らんとな……」と声を掛けた。「頑張らな駄目だぞ!」。河野を叱咤した。河野五十五歳だった。
「佐々木さんは、孝仁に似ているなぁー」。佐々木と、共に議員活動した父・健一郎が、ふともらした言葉を河野は覚えていた。河野も長兄・孝仁に佐々木は似ている、と思ったからだ。故なのか、わだかまりなく兄貴と慕えた。
「人を茶化すような男じゃなかった。物事をはっきりと言う男だったね」。河野の目に佐々木はそう映った。河野を厳しく教えた。「勉強せーよ!」「『一日一善』したか?」「六法全書を常に持って議場に入れ!」――。「佐々木さんは厳しかったけど、自分を導いてくれた。ありがたかったねー」
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一九六八年――。「北海道」命名百年の節目の年、全道の各市町村や各種団体から推薦された青年六十人で構成する「あすをつくる青年開発会議」が設置された。三十歳の河野は議長を担う。
<写真> 壮行会で130 名の団員を代表し謝辞を述べる河野
メンバーには、後に北竜町議会議長を務めた田中盛亮もいた。血気盛んな若人が、二世紀に向けた郷土・北海道を思い部会ごとに熱い論議を重ねる。河野は肥やしにしたに違いない。同年、「北海道中堅青年海外派遣事業」にも河野は参加し、壮行会で選ばれた百三十人を代表して謝辞を述べている。
七九年には、北海道市議会議長会として欧州視察にも行った。
「あのころ、道は青年を育てることに熱心だったね。私は恵まれていた。町村知事は、ほんとに器の大きい方だった。『あなた何かあったら公館に来なさい』ってね」。若き河野は、町村とカレーライスを食いながらいろんな話しをした。振り返るに河野という男は、知らず自治体首長となるべく一本道を歩んでいた、ともいえる。
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申子は、うなずいた。静かに。
すーっ、と胸によぎる思いがあった。
「やっぱり妻はおだやかじゃないですよ。申子には心にすえているものがあったんだね」。明年秋の深川市長選に担がれる話しを切り出し、静かにうなずくだけの申子の姿から河野は、そう感じた。
河野と申子の間で市長選に出る出ないの具体の話しがないまま九三年(平成五年)は、静かに暮れた。
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河野はどうだったのか……。「あのときはまだ、ふわふわしている感じだった。ただ、佐々木さん、八木さん、安岡さんと松山で交わした結束もあった。バックする、という気持はなかった」
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丸岡は渡辺の秘書になる前、農業改良普及センターの重職を担い、農林大臣を務めた中川一郎(自民)ら農林族の国会議員に顔が利いた。
渡辺とその支援者をひきいれても、渡辺と距離を置く衆議・高橋辰夫(自民)とその支援者からそっぽをむかれかねない。佐々木と石川の脳裏にはそれがあった。
中和できる――。丸岡の強い後押しがあれば……。渡辺・高橋の支援が……、佐々木と石川はそう考えたのだった。
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「誠実な人だった。生一本というのかなぁー。一直線の人だった。うちの家内は『お父さん』と呼んでいた」。夫の市長選擁立に黙ってうなずく申子には、この"お父さん"への厚い信頼があったのかも知れぬ。夫をおかしなことにはしない――と。
石川は、河野の市長選擁立に向け後援会内の調整に汗を流す。
<写真> 河野が指導を仰ぎ、妻・申子が「お父さん」と呼んだ石川藤作
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九二年十二月に宮沢内閣は退陣し、結党以来五五年体制下で三十八年間政権与党の座にあった自民党は初めて下野する。
めまぐるしい政局、新党ブーム――。
連立政権が誕生し、倒れ、また生まれ……。
されば深川はどうだったか――。
「柱がなかった。一本の柱がね」。河野は深川のマチおこしの核となるものがない、ことを残念に思っていた、という。
「それが、お父さんの気持じゃないですか」
自らの信条に生きろ――と。夫の真っ直ぐな深川への思いに妻・申子は、そっ、と背を押した。
その年の秋に予定されている深川市長選に挑みたい、と河野は申子に告げた。一九九四年一月も半ばを過ぎたころだった。
「深川の良さ、魅力を伝えたい、と思ったね。深川の宣伝マンになって相手の懐に飛び込んでいきたかった」。河野は述懐する。「ハードルは高かった。落選することも考えなくちゃならん。うちの家内に『失敗したら許してくれ』って言ったよ」
〈人間には前と後ろがある。前進したかったら、かかとを見ちゃだめ。つま先を見なさい〉。母・千代は幼き順吉によくそう言った。それが河野の心の内奥にしまわれ血肉化し、信条となった。
母・千代の言葉が立起の果断となった。
四月下旬、藤田が動く――。深川市内のホテルであった深川商工会議所の会頭・副会頭の就任パーティーの席上。「音江山ろくの開発と駅前開発の懸案を無責任に投げ出すわけにはいかない」。藤田は三期目のカジ取りに意欲を示す。水面下で出馬の準備を着々と進める河野擁立グループへのけん制の意味もあった、と思われる。
非公式ながら、深川の有力者の集まる会合で三期目カジ取りに意欲を示した藤田は、十日ほどして深川市民会館で記者会見を開く。三期目立起を正式に表明した。
記者に配布した「立起表明文」には、音江山ろく開発・深川駅周辺開発は緊急の課題とした上で、〈今、具体化にむかって手を抜くことは出来ない重要な時期と考え、手がけた責任を果たすため、三期への挑戦を決意したところであります〉と記してあった。会見には、労農商の代表者に加え市内七地区の後援会役員も同席していた。
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「市民と共に考え、共に語り、共に行動しよう」。河野は集まった支援者五十人に市政刷新を熱く訴えた。
秋の市長選は、現職と新人の一騎打ち――。
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「あのときは、一歩一歩、一人ひとりだった」
人と人のつながり――。されど、晴れ着をまとった言葉と映りがちな草の根は、途方もなく深く広くのびていった。若人の勝手連も産声を上げる。
もう止まらない――。
抗しがたい奔流の勢いがあった。若者たちでつくる勝手連「ふかがわ維新 直心の会」(会長・森井和雄)が草の根を展開する河野と約束手形を取り交わす。女性たちでつくる勝手連「太陽の会」(代表・富岡勝子)も産声を上げ、河野の後方支援にまわる。
一方、現職市長の出馬断念を受け、急きょ擁立された深川市総務部長・村端久和(59・当時)には、農・商・工の主要三派連合がついた。
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「あのときの河野さんの選挙はみんな手弁当だったね。かなり圧力がかかったんだわー。地元の建設業協会や商工と農業団体は、みんな村端さんについたからね。いろんな圧力があった。それが河野さんについた手弁当組の反発を買ったわけさ。河野さんは、あーいう人柄でしょ、上の人にも下の人にもおんなじに接してみんなに慕われていたから」。当時取材にあたった、小紙・北空知新聞社の創業者・永峰正幸(77)は、そう振り返る。河野の人柄、加えて強い者・権力者からの上から目線的指示への反発が奔流をつくった。
その二年ほど前――。結党以来五五年体制下で三十八年間政権与党の座にあった自民党が初めて下野。それから数年続く新党ブームといっためまぐるしい政局が続き、時代は新しいものを求める空気に満ちていた。「新しい風」を標榜し刷新を訴える河野は、そうした空気をまとっていたに違いない。
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支援してくれる人の万(よろず)の思いを胸に河野は「無我夢中で歩いた」。
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「あれれ、こんなに集まってくれた……」。
「もう、勇気百倍。感謝したってしきれるもんじゃない。あのときの『ありがたい』っていう気持を胸に選挙活動ができた」
選挙期間中は、和田敬友ら道議会保守系の八議員が入れ代わり立ち代り事務所に激励に来る。衆議・高橋辰夫(自民)派も衆議・渡辺省一(同)派も。九カ月前、渡辺の秘書・丸岡敬造にテコ入れを頼んだことが功を奏した。
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得票数・11966――。数字は清潔な抽象に過ぎない。その数字には、くみ取るべき万(よろず)の思いがあることを河野はかみしめた。
ハナタレのいたずら小僧だった河野を知る、前たけは、吉報にこんな歌を詠む。
〈幼年の/頃は毬栗(いがぐり)の可愛い子/今は深川(マツ)の頭/市長の笑顔〉
<写真> 初当選を果たしダルマに目をいれる河野(右)と妻・申子(中央) 、左は後援会長・選対本部長の関下
市議・人生修練の場を郷土深川に
名市長とうたわれた河野順吉(79)が、"深川丸" のカジとりを担う以前、 市議を務めていたことは一般に知られてはいるが、 どんな議員だったか、 どんな活動をしていたのかを知る人は現在においてそう多くはない 。
第二楽章は、河野の市議時代を振り返る。個人的な趣味・くせ――
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河野が深川市議会議員になったのは、六七年(昭和四十二年) 六月。その前年、冬季五輪の開催地に札幌が決まる。 日本は高度経済成長の真っ只中にあり、 北海道にも夢があふれていた。
「♪町が~できる 美しい町が♪」――。札幌冬季五輪のテーマソング「
<写真> 菊丘から広里へ地盤を移した4期目の遊説、 たすき姿の河野の左隣りが妻・申子、 右隣でマイクを握るのが後援会長・石川藤作、 1人おいて遊説隊長・三上閑
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「議員だった父親の背を見てはいた。 人を大切にすることだとかね。 だけど実務は当時市議一年生だった私は無知だった。 先輩市議だった佐々木実さん、 竹田稔さんにリードしていただいた。 ほんとに良き先輩に恵まれて私は幸せ者だった。 一期目も二期目もお茶くみの気持でやったもんだ」
先輩議員だけじゃない。市議をやり青年団活動も続けていた。
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市議になっても河野は家畜を飼っていた。妻の申子(のぶこ) が丈夫じゃないことを地域は知っている。 事情を知る隣りに住む井口春敏(現・民生委員、菊丘在住)は、 だまって何も言わず河野の家畜の草を刈りエサを用意してくれた。 「今でも家内は、『当時の夢を見る』と感謝している。地域( 菊丘)のみなさんが私たち家族を見守ってくれた。だからこそ『 菊丘のために』と思ったね」
市議時代のささやかな思い出に更進橋のバス待合所を挙げた。
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「一日一回いいことをしたか」――。「 市民のみなさんから選ばれて獲得した票の重みに対してお返しをし なければ……」。河野は、 先輩議員から問われた一言が忘れられない、という。「ときには『 これでいいのか?』と眠れないときもあった」
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「私は、水前寺清子の『いっぽんどっこの唄』(六六年)と『 三百六十五歩のマーチ』(六八年)の歌詞が大好きだ」。 市議選になる前年と、なった翌年、河野は二つの歌に魅了される。 以来歌詞の一節を人生訓とする。
「♪ぼろは着てても こころは錦♪」「♪なにがなくても根性だけは♪」(
「♪しあわせは歩いてこない だから歩いてゆくんだよ 一日一歩♪」(三百六十五歩のマーチ)
市議・首長時代、つらいとき、
「♪ 一日一歩…… ♪」
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午前の稲刈りを終え、昼食に帰宅した河野に凶報が入る。
六六年(昭和四十一年)の十二月に入って間もないころだった。 健一郎は、その年の夏、腎臓を患い、 秋に入ると市内の医療機関に入院した。
「山稼ぎで体を冷やしたためだと思う」(河野)。父・健一郎は、
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健一郎逝く――。六六年十月二十二日。五十九歳だった。
「おやじは、頑健で、
弔いを終えた河野の両肩に大黒柱の重責がのしかかる。
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このころ河野は、北海道青年団協議会の副会長の要職にあった。 弔いを終え、本業の農の収穫が終えて息つく間もない十一月八日、 「第十五回全国青年大会」のために上京。 六六年の秋から初冬にかけ河野は疾風のような日々を重ねる。
<写真> 59歳で亡くなった河野の父・健一郎
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「今から行ってええかー?」。 その年の十二月に入って間もない夜。一本の電話が入る。
訪ねてきたのは菊丘連合町内会の副会長・後藤文雄だった。
「あんたがいい、という話しがある。出てみる気はないか」。
河野は、答えを留保する。母・千代と妻・申子(のぶこ)
だが、後藤は諦めない。市農業委員(当時)
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申子は一言も発しない。終始黙っていた。傍らに座したまま。
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十二月の半ばだったろうか――。その夜も後藤・山下・影近・
「お父さん、
政治家への道――。申子は、河野の背をそっ、と押した。
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目の前には親しい顔、顔、顔があった。清冽(せいれつ)
一九六七年(昭和四十二年)六月九日――。
父・健一郎の死去からおよそ八カ月――。
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前・ 第一回深川市議会議員選挙は四つの地区ごとに定数を割り当て執行 された。河野が初出馬する第二回から現行の全市の争いとなる。 四年前・六三年(昭和三十八年)選挙は第四選挙区(音江、 定数七)で父・健一郎は三番目に多い三一四票を得て当選した。 河野の後援会幹部は全市となれば五百は必要と読んでいた。
「私の記憶では、そのころの菊丘は七十戸ほど。
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年が明け一月下旬――。
「河野君は北海道青年団のトップだぞ。
「報徳」
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「 みなさんのご推薦をいただき六月の市議会議員選挙に出させていた だきます。よろしくお願いします」。一月、二月の厳冬期――。 発会式を終えた河野は菊丘の家々を一戸一戸めぐった。 歩きながら思った。因果を――。感謝した。 周囲に温かな眼差しを注いだおやじとお袋に。 今自らの助けとなり力となっている――と。青年団の仲間、 一已農高の同窓も力になっていることも知っていた。
感謝の気持とともに強く思った。「
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「気をつけて頑張るんですよ」。その朝、母・千代は、 順吉にそう言い、亡くなった父・健一郎の仏前に手を合わせた。 妻・申子は、紺地に水玉のネクタイを河野に用意した。 申子からタスキをかけてもらった河野は選対事務所前に立った。
「みんな来てくれた」――。親しい顔が並ぶ。
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マイクを握り一声を放つ河野を人だかりの中からじっ、
終戦間もない食糧難のとき、
「重湯にして子どもに飲ませたい。白米を五合分けてください」
「持っていきなさい」。河野の母・千代は、
「『順ちゃんが立ったぞ。助けにいけ』って、父さん(夫)
「あんなお父さん(河野の父・健一郎)お母さん(河野の母・
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「私は未熟であります。 皆さんの温かいご支援を背に受けて向こう一週間の選挙を戦います 」。二十九歳の河野は初陣の第一声をそう放った。「 おやじが前回獲得した三一四票のうち百票はないものと思った。 自分だけで三百をかせがなければ」(河野)。 荷台前方に仁王立ちする河野を乗せた二トントラックの遊説車が支 援者の声援を受けながら菊丘の曲がりくねった砂利道を走り抜けて 行った。
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「きょうはお前が来ると思っとった」。
<写真> 河野(左)と市議選初出馬の往時を振り返る前たけ
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六七年六月十六日、第二回深川市議会議員選挙(定数・三〇)
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「いがぐりのいたずら坊主だった順ちゃんが、たいしたもんだ」。
「私は順ちゃんのファンだから」。ヒャッヒャッヒャッ……。
市井(しせい)の民に、
あまたの市井の民の心の琴線をそっ、と鳴らし余韻を今も残す。
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「
一九六七年夏――。 市議選に初当選して間もなく河野が道庁をあいさつ回りで歩いてい ると、以前から面識のある道教委の体育課長・ 真鍋登から声をかけられた。
犬も歩けば棒に当たる――と、いう。だが、
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話しを戻す――。
故(ゆえ)に体育課長・
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「市長、要請活動しましよう」。札幌から戻った翌日、早速、 市長室の扉を叩く。河野は深川市長・真鍋政之(当時) に直談判する。
深川に人が集まる、地域振興につながる――。河野は思った。
日本体育協会の資料によると、
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誘致したいのは深川だけじゃない。旭川・江別も食指をのばす。 何がなんでも候補地・深川で道に一本化してもらう必要があった。 まず口説く先は道だった。
「あのときは二人の真鍋さんによく動いていただいた。
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六八年夏――。建設地・深川が正式に決まる。七四年、北海道青少年スポーツセンターはオープンした。二百人収容可能な合宿研修施設で、バレーボール2面の体育館、屋外にはテニスコート3面、サッカー・ラグビーのできる球技場、全道初の全天候型(ウレタン舗装)陸上競技場を備えた。バレーボール全日本の強化選手が合宿を重ねた。深川ライオンズクラブのメンバーが手弁当で周辺に庭園を造成し、「ライオンズ庭園」と親しまれた。
河野はオープンから二年ほどした後、センターの副所長を担う。入所・退所する子どもたちに向けあいさつに立つ。「心に残る言葉を一つでもと考えてね、私自身いい勉強になった」(河野)。スポーツセンターは、今、クラーク記念国際高等学校を運営する創志学園(本部・神戸)が管理する。
自然光を得るトップライト(天窓)が印象的な建物は今も往時の面影を残す。
<写真> 屋根に隆起したトップライトが印象的な旧・ 北海道青少年スポーツセンター。現在は創志学園( クラーク記念国際高校)が「北の大地元気の泉キャンパス」 として運営している
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今欄、ゆるく――。
「へぇー、そんな一面もあったの?」という塩梅(あんばい)に、幕間の間奏曲のように河野順吉の横顔を素描(デッサン)したい。
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「私はね短気なんだ。短腹(たんぱら)が悪い癖でね」。河野は、自らをそう評する。「○○は、どうですか」「ああ、いいんじゃないか」――。一方で気が短いのは、決断力の早さと表裏でもある、と河野は言う。
逸話がある――。深川市立病院の改築が課題としてあった九七年(平成九年)。「平成十年までにマスタープランを出さねば国の補助率は下る」
「病院をやりたい(改築したい)。一つご指導を」。自治省(現・総務省)を訪ねた深川市長・河野に官僚・瀧野欣彌(北海道出身・後に総務事務次官、鳩山
由紀夫内閣で官房副長官)は、「やるなら今すぐ」と諭した。
由紀夫内閣で官房副長官)は、「やるなら今すぐ」と諭した。
東京から帰った河野はすぐに当時助役(現・副市長)だった大西良一に指示する。「十年度中にマスタープランを提出できるよう準備してほしい」。市立病院の立地場所・改築規模には多様な意見もある。ただ、このときの決断がなければ、財源確保が難しく、非常に限られた選択肢しか残らなかった可能性は否定できない。
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再び、ゆるく――。好きな食い物を聞くとスパッ、となんの躊躇もなく答えが返ってきた。「カレーライスが大好きなの」。そうい言いながら苦笑いを浮かべ、「だけど家内がねカレーライスが苦手なんだよ」。車好きでもあった。市議時代、ブルーのスカイラインが愛車だった。長距離ドライブも苦にしない。個人的な旅行、公務でもよく運転していたことは知られている。「若いころは、スピードを出してね、いたいめにもあったよ(笑い)」
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趣味はテレホンカードを集めること、だという。携帯電話の普及以前、河野はテレホンカードを常に持ち歩いた。「何か変わったことはないか」。河野は上京しても一日一回は宅に電話した、という。テレカを集めている――。そう聞いた友人らが河野に使いきったテレカを持ってくる。今では、みかん箱いっぱいに。
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温まるエピソードを一つ。市議時代、ポメラニアンの幸太(オス)を家の中で飼っていた。幸太は、河野が帰ってくるまで内玄関で待つ。上京した折は、妻・申子が受話器を幸太の耳にあて河野の声を聞かせるのが習慣だった。幸太は河野の声を聞くと、納得したようにトントンと階段を上って寝室に行った、という。
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最初に買ったテレカは、独特な抽象作品で知られた芸術家・岡本太郎の絵をあしらったものだった。
河野は、岡本のファンである。「明るさ、希望を持たせてくれる」。岡本その人、その作品が放射するポジティブな面を河野はたまらなく好いた。「私も明るく希望の持てる市政運営をしたいと思った」。東京都港区南青山の「岡本太郎記念館」に足しげく通ううち、岡本のパートナー・敏子の知遇を得る。敏子は、河野の誘いを受け深川の冬の祭典「ふかがわ氷雪まつり」の会場に来た。敏子は氷雪まつりを存分に楽しみ夜の酒席もはじける。酒豪で知られた敏子に河野はたじたじに。「あとは頼む」。河野は手刀を切り、当時の女性秘書にその後を任せ逃げた。
「いやー、あのときは秘書に迷惑かけちゃったよー」――。
<写真> 岡本太郎記念館で作品に興じる河野(市長時代)
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和裁と着付けを核に日本古来の民族衣装を伝承する学校を設置してほしい――。「大惣」の小西喜義会長の要望を受け、「北海道大惣和裁高等専修学校」は、七三年に開校する。今の深川市広里町五あたりであった。河野は学校長を、副校長に妻・申子が就く。
「和裁」「編物」「着付」「華道」――の四科。和服が好きだった申子は勉強を重ね生徒に着付けを教えた。多いとき八十生徒が通った。専修学校は北空知に和装文化を伝え続け、九三年、二十年の校史に幕を下ろす。
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市議時代の思い出を問うやスパッ、と挙げたのは八九年にあった「第四十四回体育大会・バレーボール競技」の深川開催だった。
河野とバレーボールの縁は深い。つまらない話しだが、河野が水玉のタイを好む傾向を感じている女性がいたなら観察眼鋭し、パチパチパチである。河野はボールに見立て水玉タイを好んだ。七六年「深川バレーボール協会」の会長に就いた河野は市長就任まで担う。
「深川の市技であり、多くの人たちが全国から訪れる。地域振興に寄与できると信じ国体を深川に誘致したかった」。旭川・江別・岩見沢も手を挙げていた。
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してきたことがめぐりめぐる。深川には、"一日の長"があった。バレーボールの大会運営・研修会の実績。その会場を担ったのが七四年にオープンした合宿研修施設「北海道青少年スポーツセンター」(深川市音江町)だった。
青少年スポーツセンターを会場に幾たびも大会・研修会がある。競技会場の決定に深くかかわる「北海道バレーボール協会」の会長・中田公治ら役員は必然深川に足を運ぶ機会が増えていた。ときに、深川のバレーボール関係者が地元で捕った獣類でタヌキ汁やシカ汁でもてなす。そんな、あったか交流で互いの信頼関係は厚く深くなる。めぐりめぐるそうした積み重ねが、生きた、といえる。八一年、「はなます国体・バレーボール競技」(成年の部、6・9人制)の会場に深川が正式に決まった。青少年スポーツセンター設置が、大きな"布石"となった。
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「はまなす国体」開催前年の八八年、青少年スポーツセンターを会場に「第二十六回全国スポーツ少年大会」(七月二十七日~八月一日)が予定された。常陸宮殿下・妃殿下が、選手激励のごあいさつで来深する。「殿下にセンター内の庭園で植樹してもらえないか」。来深二カ月前、河野は道体協に相談するが「間に合わない」とはねつけれる。分刻みのタイトなスケジュール。警備の問題もある。普通は、ここで諦める。河野は違った。いい意味での図々しさ、粘り強さがある。
当時全国スポーツ少年団会長で、労働大臣・防衛庁長官を歴任した衆議の栗原祐幸に連絡を取りお膳立てしてもらった。栗原、道知事・堂垣内尚弘、深川市長・藤田守也らが見守る中、河野がイチイの木を選んだ理由を説明し、常陸宮殿下・妃殿下は植樹された。そのイチイは今もある。
<写真> 植樹に臨まれる常陸宮殿下(中)・妃殿下(右)、説明する河野(
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「はまなす国体 バレーボール競技」は、八九年九月十八日から四日間開かれた。市職員・バレーボール関係者は準備に汗を流してきた。「開催にあたっての深川市民のおもてなしの心は今も私の心を動かす。おかげで大成功で終えることができた。すべての人へ感謝の思いでいっぱいだ」(河野)
市技・バレーボールを大切にする心は今も脈々と紡がれている。
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ここに一通の手紙がある。
こんな調べを奏でる。〈河野さん、お元気でしょうか? 私の事おぼえていますか?(中略)私と友達と二人で写してる写真を河野さんにあげます。この場所は沖西中の校長室です。校長室のそうじだったので、こっそりと写しました。(中略)河野さんないしょですよ〉
八八年、沖縄国体を視察に行った河野は、偶然通りかかった現地の高校前で見知らぬ女子中学生に記念撮影を請われ、パチリと応じた。それを機縁に河野はその年のクリスマスにその女子中学生にミニ雪だるまを送る。
手紙はその礼状だった。
「なるほどね」――。河野を知る御仁ならうなずくであろう。河野は、そうゆう男である。
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沖縄ではこんな出会いもあった。市議二期目だった河野は七二年(昭和四十七年)一月、「全国青年、婦人、沖縄復帰活動者集会代表団(百六十人)の団長として返還を四カ月後に控えた沖縄にいた。
「弟が北海道で音信不通となっている。探してもらえないか」
講演を終えた河野の滞在場所に知念村(現・南城市)の婦人会長・吉田苗子が突然訪ねてきた。
河野は、すぐ動く。道の林務所管に連絡し、それらしき人の所在を調べてもらう。道の林務を所管する職員の配慮もあって道内の営林署(国有林関係)も調べてもらった。吉田婦人会長の弟は大沼の営林署で無事働いていることが分かる。以来、吉田苗子が三年前に亡くなるまで河野は温かな交友をはぐくんだ。
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その場、その場の必要・利用に応じ筆者を含め多くが他者とコンタクトをとる。河野にはそれがない。本能ともいえるとっさの行動力がそのまま種をまく所作と化す。"人脈家"とはそうゆうものらしい。
複数の公職を持ち、人のために行動する両親を真近に見て育った影響もあろう。
「人との出会いを大切にする。コミュニティーづくりは私の基本中の基本であり、モットー」。青年団活動に身を投じたことも大きい。さらに、北海道バター社長・ホクレン専務といった要職を歴任した音江が生んだ快男児・三井武光から報徳の教えを得たことも見逃せない。
三井から紹介された「北海道報徳社」の専務理事・戸原藤七から河野は、報徳の精神を核にした郷土づくり・人づくりを学んでいった。
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そうした人と人が織り成すコミュニティーを大切にしてきた河野には、青少年健全育成の功労が認められ七六年(昭和五十一年)に北海道社会貢献賞を、八二年には北海道産業貢献賞(林野火災警防事業)が与えられる。
報徳を胸に河野は市議活動では、道道の菊丘入り口から音江十字路間の農免道路の整備促進と、農地の区画整理を中心とした山間地振興の重要性を説く。「真鍋政之市長(当時)さんら行政のみなさんの理解を得てスピーディーに実施していただいた。ほんとにありがたかった」
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投げかけられた一言は、河野の生涯を定めるものだった。
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顔を振り向けた瞬間、パン、と目の前で拍手を打たれたあんばいだった。
河野はその瞬間、表情を失う。
九三年(平成五年)十一月――。その夜、会派の佐々木実、八木茂章、安岡宏とともに河野は愛媛県松山市にいた。視察の最後の夜、松山市議会が懇親の酒席を設けてくれた。晴ればれとする気持のいい宴がすすむ。
数時間後、しめのあいさつに立った佐々木は、酒席をととのえてくれたことへの礼を述べた後、こう切り出す。
「明年九月(告示)の市長選は、河野でいきたい」。場が静まりかえった。八木・安岡は言葉を失い顔を見合わせる。目の前で拍手を打たれたように河野は表情を失った。
「頑張ってください」。しじまを突き破るように向かい席の松山市議たちから激励が飛んでくる。最後は、河野の必勝を期した三本締めで宴はおひらきとなった。
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なんだか笑い話のようでもある。されど懐の深い佐々木が一本取った、と見るべきだ。
宴を終えて宿泊先に戻った佐々木は、八木・安岡に「我々がもととなって頑張らんとな……」と声を掛けた。「頑張らな駄目だぞ!」。河野を叱咤した。河野五十五歳だった。
「突然で……、事前の話しもなんにもなくって、ドキっというか『えっ』っていう感じだった」
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「佐々木さんは、孝仁に似ているなぁー」。佐々木と、共に議員活動した父・健一郎が、ふともらした言葉を河野は覚えていた。河野も長兄・孝仁に佐々木は似ている、と思ったからだ。故なのか、わだかまりなく兄貴と慕えた。
「人を茶化すような男じゃなかった。物事をはっきりと言う男だったね」。河野の目に佐々木はそう映った。河野を厳しく教えた。「勉強せーよ!」「『一日一善』したか?」「六法全書を常に持って議場に入れ!」――。「佐々木さんは厳しかったけど、自分を導いてくれた。ありがたかったねー」
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河野は思う、恵まれていた、と――。青年団活動を通して若年期から町村金五ら要人とふれあった。立場ある人間の立ち居振る舞い・所作を間近に見て無意識に血肉化していったろう。若年期に、さまざまな公職・公的活動を担うことでリーダーの資質を培った。
一九六八年――。「北海道」命名百年の節目の年、全道の各市町村や各種団体から推薦された青年六十人で構成する「あすをつくる青年開発会議」が設置された。三十歳の河野は議長を担う。
<写真> 壮行会で130 名の団員を代表し謝辞を述べる河野
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メンバーには、後に北竜町議会議長を務めた田中盛亮もいた。血気盛んな若人が、二世紀に向けた郷土・北海道を思い部会ごとに熱い論議を重ねる。河野は肥やしにしたに違いない。同年、「北海道中堅青年海外派遣事業」にも河野は参加し、壮行会で選ばれた百三十人を代表して謝辞を述べている。
七九年には、北海道市議会議長会として欧州視察にも行った。
「あのころ、道は青年を育てることに熱心だったね。私は恵まれていた。町村知事は、ほんとに器の大きい方だった。『あなた何かあったら公館に来なさい』ってね」。若き河野は、町村とカレーライスを食いながらいろんな話しをした。振り返るに河野という男は、知らず自治体首長となるべく一本道を歩んでいた、ともいえる。
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「みんなの前で『市長選に出す』と言われたよ」。帰宅した河野は妻・申子に松山の件を話した。
申子は、うなずいた。静かに。
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すーっ、と胸によぎる思いがあった。
「やっぱり妻はおだやかじゃないですよ。申子には心にすえているものがあったんだね」。明年秋の深川市長選に担がれる話しを切り出し、静かにうなずくだけの申子の姿から河野は、そう感じた。
河野と申子の間で市長選に出る出ないの具体の話しがないまま九三年(平成五年)は、静かに暮れた。
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事は動いた。年が明けると、「河野でいきたい」と口火を切った同じ会派で先輩市議の佐々木実を筆頭に、八木茂章、安岡宏は他会派・議員の意向を水面下で探る。佐々木は、擁立に向け河野の後援会会長・石川藤作を水面下で口説く。
河野はどうだったのか……。「あのときはまだ、ふわふわしている感じだった。ただ、佐々木さん、八木さん、安岡さんと松山で交わした結束もあった。バックする、という気持はなかった」
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河野を弟のようにかわいがる佐々木と石川は、衆議・渡辺省一(自民)の秘書・丸岡敬造に相談する。当時、河野は渡辺後援会の北空知地区事務局長を務め、佐々木は幹事長を担っていた。だからといって佐々木と石川は渡辺の単なるバックアップを狙ったわけじゃない。
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策略があった――。
丸岡は渡辺の秘書になる前、農業改良普及センターの重職を担い、農林大臣を務めた中川一郎(自民)ら農林族の国会議員に顔が利いた。
渡辺とその支援者をひきいれても、渡辺と距離を置く衆議・高橋辰夫(自民)とその支援者からそっぽをむかれかねない。佐々木と石川の脳裏にはそれがあった。
中和できる――。丸岡の強い後押しがあれば……。渡辺・高橋の支援が……、佐々木と石川はそう考えたのだった。
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閑話・間奏曲として石川藤作についてふれたい。河野の市議四~七期の間、後援会会長を務めた。統計調査員、交通指導員といった縁の下に徹する地味な公職を長年続けた男だった。
「誠実な人だった。生一本というのかなぁー。一直線の人だった。うちの家内は『お父さん』と呼んでいた」。夫の市長選擁立に黙ってうなずく申子には、この"お父さん"への厚い信頼があったのかも知れぬ。夫をおかしなことにはしない――と。
石川は、河野の市長選擁立に向け後援会内の調整に汗を流す。
<写真> 河野が指導を仰ぎ、妻・申子が「お父さん」と呼んだ石川藤作
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このころ、国内の政治は風雲急を告げていた。
九二年十二月に宮沢内閣は退陣し、結党以来五五年体制下で三十八年間政権与党の座にあった自民党は初めて下野する。
めまぐるしい政局、新党ブーム――。
連立政権が誕生し、倒れ、また生まれ……。
されば深川はどうだったか――。
「深川のマチおこしは他市町村と比べて遅れている、と感じていた」。当時、五十五歳で市議七期・副議長を務める河野の目に深川市政はそう映った。
「柱がなかった。一本の柱がね」。河野は深川のマチおこしの核となるものがない、ことを残念に思っていた、という。
「男は夢を追いかけなきゃ……。『深川ここにあり』。『深川というマチがここにあるんだぞ!』って見せたかった」
棚のぼた餅は落ちない、されば取りにいこう!
決断する。河野五十五歳だった。
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「それが、お父さんの気持じゃないですか」
自らの信条に生きろ――と。夫の真っ直ぐな深川への思いに妻・申子は、そっ、と背を押した。
その年の秋に予定されている深川市長選に挑みたい、と河野は申子に告げた。一九九四年一月も半ばを過ぎたころだった。
「深川の良さ、魅力を伝えたい、と思ったね。深川の宣伝マンになって相手の懐に飛び込んでいきたかった」。河野は述懐する。「ハードルは高かった。落選することも考えなくちゃならん。うちの家内に『失敗したら許してくれ』って言ったよ」
〈人間には前と後ろがある。前進したかったら、かかとを見ちゃだめ。つま先を見なさい〉。母・千代は幼き順吉によくそう言った。それが河野の心の内奥にしまわれ血肉化し、信条となった。
母・千代の言葉が立起の果断となった。
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四月下旬、藤田が動く――。深川市内のホテルであった深川商工会議所の会頭・副会頭の就任パーティーの席上。「音江山ろくの開発と駅前開発の懸案を無責任に投げ出すわけにはいかない」。藤田は三期目のカジ取りに意欲を示す。水面下で出馬の準備を着々と進める河野擁立グループへのけん制の意味もあった、と思われる。
非公式ながら、深川の有力者の集まる会合で三期目カジ取りに意欲を示した藤田は、十日ほどして深川市民会館で記者会見を開く。三期目立起を正式に表明した。
記者に配布した「立起表明文」には、音江山ろく開発・深川駅周辺開発は緊急の課題とした上で、〈今、具体化にむかって手を抜くことは出来ない重要な時期と考え、手がけた責任を果たすため、三期への挑戦を決意したところであります〉と記してあった。会見には、労農商の代表者に加え市内七地区の後援会役員も同席していた。
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現職の立起表明に、河野擁立に向け水面下で一月以来準備を重ねる石川藤作(市議・河野順吉後援会会長)らは色めく。藤田の立起表明から五日後、市議会副議長・河野(56)は、音江農協(当時)で出馬を明らかにする。
「市民と共に考え、共に語り、共に行動しよう」。河野は集まった支援者五十人に市政刷新を熱く訴えた。
秋の市長選は、現職と新人の一騎打ち――。
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そうならなかった――。河野出馬表明からひと月ほどした六月下旬、突如、健康上の理由から藤田は出馬を断念する。ひと月ほどして藤田の後援会が擁立したのは深川市総務部長・村端久和( 59 ・当時)だった。すでに七月下旬。告示は(九月二十五日)二カ月後に迫っていた。
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村端には、藤田の後援会組織がほぼそのまま支援にまわった。告示に向け農・商・工の主要団体の厚い支持基盤で村端の組織固めを急ピッチで進める。
主要三派連合に比し、河野の後援会組織は、ぜい弱に見えた。河野は述懐する。
「あのときは、一歩一歩、一人ひとりだった」
人と人のつながり――。されど、晴れ着をまとった言葉と映りがちな草の根は、途方もなく深く広くのびていった。若人の勝手連も産声を上げる。
もう止まらない――。
<写真>「順ちゃん」と呼び、幼少から市議・ 市長時代と一貫して河野を支えた・前たけ(左)、と河野。 河野にはこうした市井のファンが多い
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抗しがたい奔流の勢いがあった。若者たちでつくる勝手連「ふかがわ維新 直心の会」(会長・森井和雄)が草の根を展開する河野と約束手形を取り交わす。女性たちでつくる勝手連「太陽の会」(代表・富岡勝子)も産声を上げ、河野の後方支援にまわる。
一方、現職市長の出馬断念を受け、急きょ擁立された深川市総務部長・村端久和(59・当時)には、農・商・工の主要三派連合がついた。
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「あのときの河野さんの選挙はみんな手弁当だったね。かなり圧力がかかったんだわー。地元の建設業協会や商工と農業団体は、みんな村端さんについたからね。いろんな圧力があった。それが河野さんについた手弁当組の反発を買ったわけさ。河野さんは、あーいう人柄でしょ、上の人にも下の人にもおんなじに接してみんなに慕われていたから」。当時取材にあたった、小紙・北空知新聞社の創業者・永峰正幸(77)は、そう振り返る。河野の人柄、加えて強い者・権力者からの上から目線的指示への反発が奔流をつくった。
その二年ほど前――。結党以来五五年体制下で三十八年間政権与党の座にあった自民党が初めて下野。それから数年続く新党ブームといっためまぐるしい政局が続き、時代は新しいものを求める空気に満ちていた。「新しい風」を標榜し刷新を訴える河野は、そうした空気をまとっていたに違いない。
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母校・北海道立一已農業高校同窓の熱い支援もあった。河野の後援会長・選対本部長を担った関下正夫は、河野にとって一已農高出身の先輩だった。深川市農業委員会の会長をやり、人望が厚い。「勉強熱心な人で学者肌だった。誠実でね、人を損ねることは決してなかった。その人をたてて、諭すことのできる男でね、見習ったよ」。河野は今も関下と昵懇(じっこん)だ。
支援してくれる人の万(よろず)の思いを胸に河野は「無我夢中で歩いた」。
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「あれれ、こんなに集まってくれた……」。
一九九四年九月二十五日――。神事を終え、事務所の扉を開ける。数百の人だかりがあった。一已農高の同窓生、青年団活動を通して知り合った吉原弘行、岡泰一、高松孝行……。父母と深く交わり、幼き自らを知る、前たけの顔も河野の視界に飛び込んだ。
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「もう、勇気百倍。感謝したってしきれるもんじゃない。あのときの『ありがたい』っていう気持を胸に選挙活動ができた」
選挙期間中は、和田敬友ら道議会保守系の八議員が入れ代わり立ち代り事務所に激励に来る。衆議・高橋辰夫(自民)派も衆議・渡辺省一(同)派も。九カ月前、渡辺の秘書・丸岡敬造にテコ入れを頼んだことが功を奏した。
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一九九四年十月二日――。共に無所属で新人の一騎打ちとなった深川市長選は、河野が大差で村端を退け市長の座をつかむ。
「組織の大きさにあぐらをかく、上滑りの中身のない選挙戦をしてしまった。反省している」。村端選対本部長を担った板垣淳一(84)=当時・多度志町農協組合長=は、そう述懐する。
得票数・11966――。数字は清潔な抽象に過ぎない。その数字には、くみ取るべき万(よろず)の思いがあることを河野はかみしめた。
ハナタレのいたずら小僧だった河野を知る、前たけは、吉報にこんな歌を詠む。
〈幼年の/頃は毬栗(いがぐり)の可愛い子/今は深川(マツ)の頭/市長の笑顔〉
<写真> 初当選を果たしダルマに目をいれる河野(右)と妻・申子(中央)
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